圧倒的なパフォーマンスで相手打者をねじ伏せる球界でも屈指のリリーバー。だが、そこには「万全であれば」のただし書きが付きまとってしまう。ケガと手術。試練が訪れるたびに乗り越え、立ち上がり、何度も復活のマウンドを踏み続けてきた。 文=梶原紀章(千葉ロッテマリーンズ・チーム広報)、写真=高塩隆、BBM ケガの連続の中でも苦悩は表に出さない
マウンドでのその姿は、普段見せる表情とは違う。グラウンドに出るまでの
内竜也は、どこかおっとりとした温和な表情が目立つ。しかし、ひとたびボールを握り、マウンドに上がると、面構えとその背中が醸し出すオーラは一変する。
1球に全力を込める。左足を突き上げ、軸足となる右足で全身を支えると、右足首をひねる動作とともに全体重を左足に預け、右腕はムチのようにしなり、ボールは唸りを上げる。150キロを超えるストレートとスライダー。スタンドで観戦するファンを魅了してやまない威力あふれるボールは、そのフォームと一連の緻密な動作が生み出すものだが、体への負担もまた大きい。それでも、強い覚悟と決意がある。1球たりとも悔いの残るような中途半端なボールは投げたくないというプロ根性にあふれている。
「僕はいつだって、この登板が最後になるかもしれないと思っている。そう思いながら悔いの残らないように全力で投げているんです。毎年のようにケガをして手術を重ねると、どうしてもいろいろと考えてしまう。投げられる幸せを感じる一方で、もう投げられなくなるかもしれないという思いを背負ってきた。だから投げるときは全力で悔いが残らないように、1球1球を味わいながら投げている。いつだって、これが“人生で最後の1球”になるかもしれないと考えながら投げています」 これまでのプロ野球人生がケガとの闘いの連続だった男だからこその思いだ。高校時代は大きなケガに見舞われたことはなかった。プロ入り後も順調に過程を踏んできた。しかし2007年に右肩を手術したのを機に、苦難の日々が始まった。10年に右足首、11年に右ヒジにメスを入れると、12年に右足、13年にも右足首、そして14年には右ヒジと右足首と計7度の手術。10年からは5年連続で、14年に至っては手術後の入院中に盲腸を患い、別の病院でまた手術を行った。それでも決して人前でその苦悩を表に出すことはしなかった。
「手術は5年連続6度目です。甲子園の常連校みたいでしょ!」とあえて冗談を言い、気丈に振る舞い、手術室へと向かった。心の苦しみを隠し続ける強い信念があった。
「周囲を心配させたくない。もちろんその気持ちがあります。もう一つ、後輩たちも見ていますから。僕がつらそうにして病院へ行ったら、今後、手術を受けることになる後輩たちはそのことを思い出してしまう。でも僕が明るく振る舞えば、前向きに手術と向き合えるかもしれない。自分のことを思い出してポジティブに取り組んでくれるかもしれない。若い子たちに“手術=終わり”とは思ってもらいたくないんです」 誰よりも手術を重ね、その痛みと苦しみ、悲しみを知っているからこその自覚だった。ケガや手術は決して後退ではない。前に向かう一歩なのだ。それを伝えられるのはチームで自分しかいない。その責任を背負い、マウンドに上がる。だから手術前につらい顔は見せなかったし、リハビリにも前向きに懸命に取り組んだ。自分の姿は見られている。その思いが背番号「21」を立ち上がらせるエネルギーとなっていた。
「内もああやって手術から復帰して、普通に投げている。だから『自分もできる』と思ってくれたら。それは僕にとっても投げる上で大きな力になっている」 手術をするたび自分に約束した。手術前の自分よりパワーアップしてマウンドに戻ると。そう言い聞かせ、気持ちを高ぶらせながら地道なリハビリに取り組み、何度となく復活を遂げてきた。それでも、さすがに挫折しそうになったことはある。右ヒジと右足首を痛めた14年。5年連続の度重なる故障に気持ちは落ち込み、当時、二軍で調整をしていた
里崎智也氏(現ロッテSA、野球解説者)に相談をした。
「また故障してしまいました。もうやめようかと思います」。このシーズン限りで引退を決意し、二軍調整中だった大ベテランは優しく諭してくれた。「球団が手術をしても契約をしてくれるというなら続けたほうが絶対にいい。自分で自分を終わらせるな。カッコ悪くてもしがみついたほうがいい」。
折れそうになっていた心に勇気が湧いた。再び手術に踏み切る大きなキッカケとなった。今も忘れられない言葉だ。
投球フォームが生み出すボールの威力と右足首への負担
03年のドラフトで1位指名され千葉ロッテマリーンズに入団。同期には6位で横浜高から入団した
成瀬善久(現
ヤクルト)などがいた。
青木宣親(ヤクルト)、
鳥谷敬(
阪神)、
糸井嘉男(現阪神)、
内海哲也(
巨人)など、現在のプロ野球の中心にいる選手たちが各球団に指名される中で、ロッテが1位指名してくれたことを誇りにしている。
高校時代は先発型の投手だった。ただ当時のバレンタイン監督、
古賀英彦二軍監督などの首脳陣はこの若者にセットアッパーとしての適性を感じ取り、1年目からファームでストッパーの役割を与えた。高卒1年目は体力強化に充てられ、シーズン中盤くらいから実戦デビューすることが多いが、内は序盤戦からストッパーとして最終回のマウンドに上がった。その年、高卒新人としては異例のイースタン・リーグ最優秀救援投手のタイトルを獲得する。
「あのときに二軍で抑えをやっていたことは今に生きていると思います。適性を見出していただき、高卒1年目から起用していただいたことに感謝しています」 ただ、一軍戦力として花を咲かせるのには時間がかかった。先に頭角を現したのは成瀬だった。07年に16勝1敗、最高勝率と最優秀防御率という活躍で無類の存在感を見せた。そのシーズンオフ、内は肩を痛め、初めての手術に踏み切っている。
「成瀬も入団当初はケガをしていた。でも自分自身の中でうまくプランを持っている印象でした。もともと、いい投手だと知っていたので、活躍に驚きはなかったです」 そこから2年後。内も大きな一歩を踏み出す。09年7月2日の
西武戦(西武ドーム)。7対7で迎えた延長12回。ロッテが2点を奪い、勝ち越して迎えた西武の攻撃で出番は回ってきた。5番手の
川崎雄介が打たれて1点差まで詰め寄られ、なお一死満塁。絶体絶命の場面で、セーブシチュエーションとしては初めてのマウンドに上がる。
「栗山さん(栗山巧)をスライダーで空振り三振。続く中島さん(中島裕之)をショートゴロ。もう無我夢中で投げました」。あまりにも華麗なる火消し。ルーキーイヤーから期待されていた素質の片りんが見えた瞬間だった。
その才能が大きく花開き、全国の野球ファンが知ることとなるのは10年の
中日との日本シリーズ。4試合に投げて8イニングで被安打6、13奪三振、無失点。無敵のマウンドさばきでチームの日本一に貢献し、日本シリーズの優秀選手にも選ばれた。大きく開かれた未来を誰もが期待した。しかし、待っていたのは故障と手術の連続。特に右足首をひねるように投げることで威力あるボールを生み出す投球フォームは、足首への負担が大きかった。右足だけで4度の手術。諸刃の剣に背番号「21」は苦悩した。
「自分のフォームが、足首に負担が大きいのは分かっていました。それをやめるように助言してくれる人もいた。でも、このフォームを変えたら自分ではない。持ち味がなくなってしまう。自信を持てる球を投げたい。投げたあとのケアを徹底することで予防して、それでも痛めてしまうのであれば仕方がない、という強い覚悟を持ってやるしかないという結論に至りました。そこは今も絶対にブレることはない」 
ボールの威力を生み出すとともに右足首への大きな負担が掛かる。だが覚悟を決め、これからも自分の持ち味である投球フォームで自信のあるボールを投げ込んでいく
覚悟を決めた末、ついに走り抜けた1年間
ケガと真正面から向き合いながら投げる日々が続いた。覚悟の上だったが、その後も試練はたびたび訪れる。それでも、逃げることなく歯を食いしばりながら、立ち上がっては前を向いた。
「自分の持ち味であるフォームで自信のあるボールを投げた結果、終わってしまうかもしれないけど、それは覚悟の上。だから毎試合、すべてのボールで最後になるかもしれないと思いながら、悔いの残らないようなボールを投げなくてはいけないと考えるようになりました」 まず達成しなくてはいけない目標は途中離脱することなく1年間、一軍の戦力となることだった。体の状態が万全で迎えた16年。春季キャンプも久しぶりに一軍で迎え、序盤からブルペン入り。例年にない好感触を得ながらシーズンへ突入した。
順調にセットアッパーとしてホールドを重ね、チームの勝利にも貢献をしていく。充実した日々だった。
落合英二投手コーチ、
小林雅英投手コーチも「今年は1年、働いてくれ」と期待を込めて声を掛け続けてくれた。ところがチームが上位争いを続ける交流戦明けの6月、右ヒジに違和感が生じる。今までの故障はすべて骨に関するものだったが、今回は神経性。いつもと違う痛みに戸惑った。痛みと付き合いながら7月を迎え、登板機会を減らすなど首脳陣も配慮、全面バックアップをしてくれたが、最後は自分から登録抹消を申し出た。オールスター直前。つらく悲しい決断だった。
「自分から言いました。投げられないのに一軍にいるわけにはいかない。戦力にならないのなら周りに迷惑をかけるだけ。チームの調子も自分の成績も良かっただけにショックは大きかったです。自分はもう、1年を通して投げることはできないのかと思いました」 翌17年10月10日。昨季の最終戦となった
楽天戦(Koboパーク宮城)のベンチに内の姿があった。50試合に投げて5勝16セーブ。ついに1年を通してチームに貢献し続けることができた。15年に入籍した妻は栄養を考えた食事をいつも用意して支えてくれた。ナイターで遅くなっても食事を作って待ってくれていた。8月には長女も誕生している。
ひとつ年下の
涌井秀章の存在も大きかった。エースの練習に対する姿勢は勉強になり、いろいろなことを紹介してくれた。「内さんがいないとこのチームはダメだから」。そう言って励まし続けてくれた。
最終戦のあと、宿舎に戻ると英二投手コーチの部屋を訪ねた。このシーズン限りで退団を決めていたコーチからは「本当にありがとう。オレにとっても自信になった。オマエもこれを自信にしろ」と声を掛けられた。戦線離脱することなく投げることを誰よりも期待してくれていた人からの、最後の言葉だった。
「今年もやるしかない。チームが優勝争いをする中で貢献をしたい。井口監督(井口資仁)とは選手時代に一度、一緒に日本一になっている。今度は監督として胴上げしたい」 プロ14年目で初めてシーズンを完走した。今まで見たことがない景色と感覚。ただ、それに浸ることはない。次の頂を目指す挑戦はもう始まっている。これからも故障に苦しむ後輩たちの道しるべとなれるように、威風堂々とマウンドに上がる。

マイペースながらも精力的に石垣島での春季キャンプを送る。2018年シーズンも離脱することなく最後まで駆け抜けるつもりだ
PROFILE うち・たつや●1985年7月13日生まれ。神奈川県出身。182cm87kg。右投右打。川崎工高から2004年ドラフト1巡目でロッテに入団。度重なる故障に悩まされてきたが、万全であれば高いパフォーマンスを披露する球界で指折りのリリーバー。昨季は中継ぎや抑えとして自身初となる一軍での完走を果たした。今季も最下位からの巻き返しを図るチームに最後まで貢献し続けることを誓う。