育成からのスタート、想像以上に厳しかった現実、侍ジャパンのユニフォームに袖を通すまでになった成長、右ヒジの痛みとともに訪れた大きな挫折と苦悩の日々。まさに紆余曲折の野球人生を歩んできた苦労人が、再びまばゆいばかりの光を放とうとしている。 文=梶原紀章(千葉ロッテマリーンズ・チーム広報) 写真=小山真司、BBM 
通算88セーブを誇るかつての守護神は苦しい時期を乗り越え、復活の昨季を経て、再び先発として輝きを取り戻そうとしている
苦しかった“育成”の日々
2014年11月15日、歴史的なマウンドに
西野勇士は立っていた。東京ドームでの日米野球第3戦。9回を打者3人で抑えると、先発の
則本昂大(
楽天)、2番手の
西勇輝(当時
オリックス)、3番手の
牧田和久(当時
西武)とともに大観衆が見守るお立ち台に呼ばれた。日本を代表する4投手によるリレーでノーヒットノーラン。MLB選抜チームを相手に日本として初の偉業をやってのけた。侍ジャパンのユニフォームが輝いて見えた。
「入団したときのことを考えると信じられないです。あのころは下ばかり向いて歩いていた」 14年は31セーブで救援失敗はわずかに3度だけ。日本を代表するストッパーに上り詰めた。だが、育成ドラフト5位で富山から18歳で上京してきた若者が、そこに辿(たど)り着くまでの道のりの間には、何度も心が折れそうになる日々があった。
「覚悟していました。育成で契約することの意味は分かっていたつもりです。でも、やはり現実は思った以上に厳しかったし、つらいこともたくさんありました」 遠い昔のことのように08年12月に行われた入団会見を思い返した。ひな壇に支配下選手が並び、その左横に育成選手8人がまとめて座っていた。マスコミからの取材も当然、支配下選手に集中する。会見の場から“差”を感じざるを得なかった。一番の違いは待遇。支配下選手はロッテ浦和寮。育成選手はそこから自転車で15分ほどの距離にある築40年以上経つ施設で過ごした。朝と夜、食事のときだけ寮を訪れ、また自転車で戻る。夕食の帰り道。夜風に吹かれながら、悲しくなった。寮の部屋から照らされる明るい光、ほかの同期入団の選手たちが球団寮で過ごしていることが無性にうらやましかった。星空に向かって、願いを込める。そんな毎日だった。
「球団の寮との環境は雲泥の差でした。何ともうらやましかった。いつかはこっちの寮に移るんだというのをモチベーションにしていました」 もう一つ、愕然(がくぜん)とさせられたことがあった。二軍球場のロッカーだ。支配下選手はそれぞれに個別のロッカーが割り当てられ、スペースがあった。育成選手は個別ロッカーではなく、全員で一つのスペースが与えられただけ。
「まるでプレハブ小屋だった。そこを10人近くで共有していた」と振り返る。覚悟はしていたし、そこからハングリーな気持ちで這(は)い上がろうと決意しての入団だった。だが、18歳という感性豊かな年ごろの若者の心に突きつけられた現実の一つひとつが、切ない気持ちにさせていった。
「何度もやめようと思いました。気持ちは毎日、激しく上下しました。落ち込んだり、また頑張ろうと思ったり……。親にも電話をして『やめたい』と相談もしました。でも返ってくる答えはいつも同じなんです。『最後までやり切れ』と。それを聞いて、『それしかないよな』と納得して、また頑張る。その繰り返しでした」 そんな日々に希望をもたらしてくれたのは、当時
ソフトバンクに在籍していた左腕・
山田大樹(現
ヤクルト)の活躍だった。09年10月のフェ
ニックス・リーグでフューチャーズ(各球団混成チーム)の一員として、育成選手だった2人はチームメートになった。そして山田は翌10年に支配下登録されると、その年に4勝。11年にも7勝を挙げ、マスコミから注目を浴びた。2歳年上の山田が躍動する姿を自分にダブらせた。山田を紹介する新聞記事を見つけると、冷蔵庫に張り付けて毎日、読み返した。
「冷蔵庫だと毎日、必ず開けるじゃないですか。目にするところに貼って、『よし、オレもやるぞ』というように、やる気を起こしていた」 12年の鴨川での秋季キャンプ。晴れて支配下登録された。入団から4年の月日が流れていた。いつかはと思っていたが、そんな日はもう来ないのではないかとさえ感じていた目標。ようやくプロのスタート地点に立った。心地よい感激が体中に充満した。だが、心が浮き立つ自分を押さえ込み、ここからいかに結果を出していくかだけを考えていた。
狂った歯車
4年間の我慢を考えると、一軍でのチャンスは予想以上に早く巡ってきた。
成瀬善久が開幕戦で足に打球を受けて登録を抹消。さらに
グライシンガーも離脱と先発のコマが足りない中でチャンスが与えられた。13年4月7日の楽天戦(Kスタ宮城)だ。雨が降りしきる中、2回を投げて1安打無失点。上々の立ち上がりだった。しかし、雨脚は強くなる一方。祈るような思いで腕を振った。
「試合が成立するまで投げさせてほしい。こんなチャンスは、もう二度と来ないかもしれない。そんな切なる思いでした」 当時の心境を西野はそのように振り返る。チャンスが滅多に訪れないことは育成時代にイヤというほど味わっていた。自分が先発予定だった試合の登板が、急に支配下選手に変わったことは何度もあった。だから、この登板が流れれば、二度と一軍のマウンドは巡ってこないかもしれないと思った。しかし、想いはむなしく3回表が終了後、ノーゲームが決まった。頭が真っ白になった。
チャンスは消えたとベンチで肩を落とす西野に、
齊藤明雄投手コーチが声を掛けた。「明日もいけるか」。予想もしていなかった言葉がうれしかった。わずか27球だったとはいえ、2日連続の先発登板。現代のプロ野球では異例の登板に周囲が心配する中、がむしゃらに投げた。もうチャンスを手放したくない。後先を考えず、全力で投げた。気が付いたとき、勝ち投手になっていた。4月8日の楽天戦。西野が本当の意味で、プロとして新たな一歩を踏み出した瞬間だった。
「あの試合で、もし僕じゃない人が先発をして、そして結果を出していたら、きっとその人がそのまま先発ローテーションに入って、その後の自分はいないと思う」 西野は当時のことを懐かしそうに振り返った。

“2日連続”先発となった4月8日の楽天戦で初先発初勝利。プロとしての第一歩を踏み出した。左は当時の伊東勤監督
その後、前半戦だけで8勝をマークした。オールスターにも初出場した。マリーンズがAクラス入りを果たす立役者の一人になった。14年からはストレートとフォーク、スライダーのコンビネーションから後ろに適任との評価を受けて、ストッパーに転向。3年間で86セーブを挙げる活躍を見せ、誰もが認めるマリーンズの守護神の座を射止めた。
しかし、21セーブを挙げた16年の前半戦終盤ころから右ヒジの痛みを感じるようになった。7月26日のオリックス戦(京セラドーム)でセーブを挙げたのを最後に、この年は抑えとしての役割を果たすことはなかった。
翌17年は右ヒジの状態も考慮して先発に再転向したものの、最後まで思ったようなパフォーマンスは出せず、5試合に登板して2勝3敗という成績に終わる。そこから暗い森の中をさまよい続けた。18年は14試合に登板して防御率6.19の未勝利。一年の大半は二軍で過ごした。
「自分の中では先発に転向して変な責任感を持っていました。10勝以上はしないといけない、と。ヒジをかばいながら我慢をして投げていた。結果的にそれが悪いほうに出てしまいました。フォームも崩れ、いろいろなところも崩れてしまった。スピードも出なくなった。結果的に中途半端にやってしまったことで、すべてが悪くなってしまいました」 一度、狂った歯車を戻すのは簡単な作業ではなかった。18年は二軍でも防御率5.71。オールスターに2度出場し、侍ジャパンにも選出されている男が、実績のない若手相手に簡単に打ち込まれる姿があった。
「なんでこんなに打たれるのか僕も分からない。球もいかないし、自信がない。こんなに打たれたことは育成時代にもない」と肩を落とした。
自ら見つけた復活の契機
悩み苦しみ、自信を喪失した。かつてマリーンズ不動の守護神に君臨し、マウンドで自信満々に投げていた男の姿はもうそこにはなかった。当時を西野は
「地獄のようでした」と言う。シーズンオフの12月。意を決して渡米した。自らインターネットや書籍などいろいろなことを調べている中で、動作解析を専門とするシアトルのトレーニング施設に行き当たった。知り合いを通じてアポを取り、自費で10日間の日程で訪問した。映像によるフォーム分析。その中で、まったく見えなかった未来への道がはっきりと示された。
「自分で調べて、メジャー・リーガーなども通う有名なトレーニング施設に行き着きました。その施設のコンセプトの一つとして、ケガをした選手をケガする前の良かったときのフォームに戻すというのがあったので、これに賭けようと思いました。映像をいろいろな角度から見て、照らし合わせて、いろいろな指摘を受けて、これだという発見があった」 良かったときにあって、ヒジをかばいながら投げていたときに失ったもの。確かな発見があった。ヒジに負担のかからないフォーム。あるべきヒジの角度、高さを説明され、腑(ふ)に落ちた。さっそく試してみると、効果はてきめんだった。フォームの修正後、納得いくボールが戻ってきた。ストレートが140キロ台後半を計測するようになると、フォーク、スライダーのキレも取り戻した。何より、オープン戦での打者の反応に手応えを感じた。
19年5月4日の
日本ハム戦(ZOZOマリン)では中継ぎで登板し、約4年ぶりとなるお立ち台に立った。5月9日、大宮での西武戦。9回二死から同点に追いつかれたマリーンズは、それでも土俵際からの粘りを見せた。延長11回に1点を勝ち越して迎えたマウンドに、かつての守護神・西野が向かった。打者3人に対して2奪三振。11球で料理し、チームの勝利に貢献した。
西野の復活をもっとも印象付けたのはZOZOマリンでの5月25日のソフトバンク戦だ。この試合、試合前からストッパーを任されている
益田直也は使わずに温存し、西野が最後を締めることが決まっていた。4対3の1点リード。緊迫の場面で9回のマウンドを任された。一番から始まる相手の好打順。
釜元豪をフォークで空振り三振に仕留めると、続く
牧原大成はフルカウントから147キロのストレートをインコースに決め、見逃し三振。最後は
グラシアルも148キロのストレートを低めいっぱいに決めて見逃し三振に仕留める完ぺきな救援で、チームを勝利に導いた。最後は右手で力強いガッツポーズも飛び出した。
「懐かしい感じだった。スタジアムの雰囲気もいつもと違うように感じた。抑えだったころはこの雰囲気を当たり前に感じてしまっていたのかもしれないけど、久しぶりにあれだけの歓声を受けると本当に気持ちが良かった。三振を3つ奪って、『ああ、自分が追い求めていたのはこの感じだ』と思った。いけるという自信が湧いた瞬間だった」 結局、19年は夏場に先発に回り、37試合に登板して防御率2.96。9月7日のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)ではプロ11年目で初完投、初完封勝利を挙げるなど、復活への軌跡を確かなものにした。西野先発構想を温めていた
吉井理人投手コーチは翌年の先発起用も早々に決め、オフに本人へ打診。快諾した。
「やれるという感覚はあります。だからコーチから話をされたときも『ヨシ!』と思いました。まだ2ケタ勝利をしたことがないので、まずは2ケタというのが普通でしょうが、目標は15勝。それくらい高い目標を持っていないといけないと思います」 
完全復活を遂げた昨季はリリーフに先発にフル回転の活躍で苦しい台所事情を支えた
エリート街道とは程遠い紆余曲折の道のりを歩んできた。挫折しそうになる日々の中で西野はただ一つ、絶対に曲げない信念を持って生きてきた。それは
「悔いを残さないように生きる」ということ。だからプロ初先発のときも2日連続の先発登板を志願した。もがき苦しんだ18年オフには自費で渡米してフォームを追求した。一度しかない人生で悔いだけは残したくない。人事を尽くす。その思いが、決して多くはなかったチャンスをしっかりとつかみ取る要因となった。追い風が吹き、成功へと導いた。
これまでになく万全の状態で迎える2020年。西野勇士は再び大きな輝きを放つ。その光は苦労人が醸し出す魅力であふれている。

開幕がいつになるかは分からないが、ここまでは開幕先発ローテーション入りが確実と言えるピッチングを披露してきた
PROFILE にしの・ゆうじ●1991年3月6日生まれ(29歳)。183cm87kg。右投右打。富山県出身。新湊高―ロッテ09育(5)、13=8年。