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松永はFA移籍第1号選手でもある
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月29日だ。
1993年オフ、日本球界にフリーエージェント(FA)制が導入。移籍は新時代を迎えた。
宣言第1号は
阪神の
松永浩美。11月2日、自宅前で待ち構えていた報道陣に「FA宣言します。書類ももう提出しました」ときっぱり言い切った。この年の資格取得選手は引退表明者を含め60人。結局、松永をはじめ、
中日・
落合博満、
巨人・
槙原寛己、
駒田徳広、
オリックス・
石嶺和彦の4人が宣言した。
松永に対しては、宣言後、阪神ファンが一斉に大ブーイングをした。松永がオリックスから阪神に移籍し、まだ1年。しかも故障もあって期待されたようにVの使者にはなれず、対して交換トレードでオリックスに移った
野田浩司が17勝を挙げて、最多勝の活躍をしたこともある。
加えて大きかったのは、マスコミが、この流れに乗って松永を完全に“悪役”とし、ネガティブな報道に終始したことだ。それにより騒動はさらに大きくなった。
松永は、人気ドラマ『ドクターX』ではないが、いわゆる職人選手で、上に媚びることなく、自らの持つスキルで勝負する一匹狼だ。ただ、強かった時代の阪急で若手時代を過ごしたこともあり、ドラマと違って、チームの勝利への思いもまた、誰よりも強かった(患者の命と考えれば同じか)。
阪神移籍後も当然のようにチーム改革のためにさまざまな提案をしたが、ほぼ無視されたという。いらいらが募り、阪神フロントにもまた、そんな松永を煙たがる空気があったのだろう。FA宣言後、まったく連絡がなく、放置状態が続いた。
第1回の交渉は11月24日。交渉の席で「私に何を求めますか」と尋ねても「三塁を守ってクリーンアップを打って、そのくらいですかね」の答え。その場で退団を決意した。
阪神への不満だけではない。松永の中に「自分がFA第1号に」という思いがあったのも確かだったようだ。ずっと日本のプロ野球選手の価値観をもっと高めたいという思いがあり、そのための近道は選手の年俸を上げること。FAは、その絶好の手段に思えた。
以後、
西武とダイエーの争奪戦になったが、ここでも光ったのが、球界の寝業師と言われたダイエー・
根本陸夫監督だ。殺し文句は「松永君、ウチで苦労してくれないか」。低迷期にあったダイエーを引っ張っていく存在になってくれ、という意味だ。
対して松永は「ダイエーの若い選手にズバズバ言うかもしれません。殴るかもしれませんよ」と言ったが、「かまわん。そういうのを君に求めているんだ」とニヤリ。松永が何に不満を持ってFAを選んだか、さらには、その性格も十分に分かっていたからだろう。
さすが根本監督の“人たらしぶり”と言うべきか。
写真=BBM