背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 故障に苦しめられても
野球は9人で打線を組み、9人で守るスポーツだ。「9」は“苦”と音が通じるため、「4」と並んで忌み数とされるが、野球とは切っても切れない重要な数字でもある。ただ、「9」の歴史を振り返ると、故障などに苦しんだ打者が多いのも事実だ。しかし、そのほとんどが、そこから復活を果たし、チームに不可欠な存在として再び光を放った。カムバック賞に選ばれた打者が多いのが「9」の特徴だ。
【12球団主な歴代背番号「9」】
巨人 山本栄一郎、
藤尾茂、
吉田孝司、
村田真一、
亀井義行(善行)☆
阪神 松木謙治郎、
安藤統夫(統男)、
佐野仙好、
マートン、
高山俊☆
中日 三浦敏一、
菱川章、
谷木恭平、
中尾孝義、
井上一樹、
石川駿☆
オリックス 山田(浅野)勝三郎、
森本潔、
本西厚博、
坂口智隆、
ロメロ☆
ソフトバンク 堀井数男、
柏原純一、バナザード、
小久保裕紀、
柳田悠岐☆
日本ハム 吉田勝豊、
鈴木悳夫、
千藤三樹男、
木村孝、
中島卓也☆
ロッテ ロペス、
江島巧、
斉藤巧、
五十嵐章人、
福浦和也☆
DeNA 金光秀憲、
若菜嘉晴、
銚子利夫、
田中一徳、
大和☆(2018~)
西武 河野昭修、
城戸則文、
奈良原浩、
赤田将吾、
木村文紀(2018~)☆
広島 森永勝治(勝也)、
三村敏之、
長内孝、
緒方孝市、
丸佳浩☆
ヤクルト 城戸則文、杉浦亨(享)、
ペタジーニ、
飯原誉士、
塩見泰隆☆(2018~)
楽天 鷹野史寿、
宮出隆自、
阿部俊人、ラッツ、
オコエ瑠偉☆
(☆は現役)
復活のストーリー

阪神・佐野仙好
広島の三村敏之は1979年に、ヤクルトの杉浦享は87年に、それぞれ故障から復活してカムバック賞の受賞。近鉄から巨人へ移籍して捕手ナンバーの「9」となった
有田修三は3年目の88年に正捕手の座を奪い、翌89年には中日時代に「9」だった中尾孝義が巨人へ移籍して正捕手となって、2年連続で「9」に関係する巨人の捕手がカムバック賞を受賞することに。
近年では、故障に苦しんでいた小久保裕紀がダイエーから巨人へ移籍して2004年に受賞している(巨人時代の背番号は「6」)。ダイエー、ソフトバンクで背負い続けた小久保の「9」は柳田悠岐が継承。やはり故障の少なくない選手だが、そのたびに復活し、打線の中軸という印象をも受け継いでいる。
「9」の系譜において、カムバック賞にこそ漏れているが、最大の苦境から復活を遂げたのが、阪神の佐野仙好だろう。ドラフト1位で75年に入団し、1年目から「9」を与えられた佐野は、もともとは三塁手だったが、
掛布雅之の台頭で外野へ追いやられて、77年に打球を追いかけ川崎球場の外野フェンスに頭から激突。当時のフェンスはむき出しのコンクリートで、頭蓋骨陥没骨折の重傷を負う。グラウンドに乗り入れた救急車で運ばれ、1週間あまり生死の境をさまよったが、それでもボールを離さなかったというからすさまじい。
そして約2カ月後には復帰、最初の打席で本塁打を放つ。その後は外野のレギュラーに返り咲いて、81年に初代の勝利打点王、85年には主に六番打者として阪神21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ制では初となる日本一に貢献した。ちなみに、現在では当たり前だが、球場のフェンスにラバーを張ることが義務化されたのは佐野の事故が契機だ。野球規則にも、選手の生命に関わるプレー中の事態についての項目が追加されている。
ケガも野球とは切っては切れないものかもしれない。しかし、そこから再起を果たす物語もまた、ファンの心を熱くするのだ。
写真=BBM