星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 大きなプレッシャー

2期目の就任は大きな重圧を感じながらだったという
1991年限りで
中日監督を退任し、再び解説者となった星野だが、
高木守道監督が率いたチームが92年最下位に沈むと、早くも復帰待望論が中日ファンから出た。
翌93年は
ヤクルトとデッドヒートになっての2位と持ち直したが、続く94年は前半戦で
モタモタしている間に、高木監督に見切りをつけた球団から監督復帰の声がかかった。
「加藤巳一郎オーナーに呼ばれて『もう一度、戻ってこい』と言われた。『もう勘弁してください』と言ったら、『お前はドラゴンズを見捨てる気か』と初めて怒鳴られましてね」(中日70年史)
悩みに悩んだ末、受けるつもりで気持ちを固めたが、首位の
巨人が足踏みをしている間に中日が猛烈な追い上げ見せ、最終戦直接対決で勝ったほうが優勝という劇的な展開となる。
あの「10.8」だ。星野は奇しくもその試合の解説もした。
そのころ星野は「ここまできた監督をやめさせては歴史に汚点を残します。高木監督をやめさせないでください」と加藤オーナーに言い、就任を辞退したという。
しかし、翌年中日は再び低迷。今度は高木監督が休養したことで、あらためて就任要請があり、もう断れなかった。
「前回は俺が未知の世界(監督業)に飛び込んできたということで、周りも非常に朗らかだった。しかし、今回は確実にチームを立て直してくれる。1年目から勝負できる。あいつならやれるんだ、というものすごいプレッシャーを感じるね」(就任当時のインタビュー)
主力選手の顔ぶれは1期目と大きく変わってはいなかったが、アプローチはまったく変えたという。
「監督になって最初の優勝のときは、とにかくオレが、オレがの元気印で引っ張っていって、一度Bクラスはあったけれども5年間、そこそこの成績を残しはしました。それで結局、首を痛めたこともあって、また4年間の休みをとって2度目の監督になったときには、もう10年たっている。かつて独身時代にビシビシ鍛えた選手たちも、結婚して子どももいる一家の主になっている。もう暴君のようにやっていくことはできん。それに一人で組織は作れない。“監督だけで多勢の人間を束ねていくのは無理だ”という意識が強くなっていたし、2度目の評論家生活でいろいろな人の話を聞いて任せる勇気も必要だと悟ってきた」(中日70年史)
1年目、ナゴヤ球場ラストイヤーの96年は2位だったが、97年待望のナゴヤドーム初年度は、それまでの狭いナゴヤ球場で猛威を振るった強打線が広いナゴヤドームでは通用せず、屈辱の最下位に終わってしまう……。
<次回へ続く>
写真=BBM