星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) アイドリングの1年を終え

神宮で優勝を決め、胴上げされる星野監督
前回は、1997年のナゴヤドーム初年度、最下位に終わったというところまでだった。
実は、この年に向け、星野監督は珍しく大きな補強しなかった。その理由について触れた個所を紹介する(
中日ドラゴンズ80年史より)。
「ドーム球場に関しては、あまり賛成じゃなかったんですが、楽しみにしている選手もいる。古民家から分不相応な大邸宅へ引っ越しです(笑)。その住み心地を味わってもらいたいので1人もトレードせず、解雇も最小限にしたはずです」
なお、ドームお披露目の日に、最愛の扶沙子夫人が死去(享年51歳)。同インタビューで「これが人生で一番つらかったなあ」とも語っていた。
いわばアイドリングの1年を終え、97年オフ、星野監督は再びチーム改革に着手。主砲の
大豊泰昭、強打の捕手・
矢野輝弘と
阪神の捕手・
関川浩一、内野守備の名手・
久慈照嘉の大型トレードを実施した。俊足の関川については外野手起用を最初から考えていたという。さらに韓国球界からは“韓国の
イチロー”とも言われた俊足巧打の
李鍾範。さらに投手陣も、やはり韓国から左腕の
サムソン・リー、ドラフトでは後輩となる明大のエース、
川上憲伸を獲得。比較的狭くホームランが出やすかったナゴヤ球場時代の野球を完全に捨て、ディフェンス重視のナゴヤドーム野球への変換を進めた。
結果にもすぐ出た。98年は防御率3.14と12球団最高。優勝争いにも加わったが、この年はマシンガン打線の横浜に届かず、2位に終わった。
迎えた99年は、中継ぎに新人・
岩瀬仁紀が加わり、
落合英二、岩瀬、サムソン・リーから守護神・
宣銅烈の勝利の方程式が確立。打ってはガッツマン・関川が攻守でチームを引っ張り、開幕から11連勝。そのまま指揮官としては2度目の頂点に立った。
「1度目の優勝とはまた違った感慨がありました。開幕していきなり11連勝。これで優勝できなかったらどうしようというプレッシャーとの闘いですよ。そして8月、
巨人に1ゲーム差、0.5ゲーム差に追い詰められた。そのときのミーティングのことはいまでも覚えている。食堂に全員を集めて、『勝負事はなかなか勝たせてくれんものだが、今年は勝てるようになっているんだ』と言ったんですよ。そしたら巨人に2試合連続のサヨナラ勝ち。それで一気に波に乗った。『言葉は力なり』とつくづく思ったものです」(中日ドラゴンズ70年史)
選手時代から通じ、4度目の日本シリーズは、現役時代、激闘を繰り広げた
王貞治監督率いるダイエーに敗れたが、その強さは、しばらく続くだろうと思われた。
<次回へ続く>
写真=BBM