背番号は、ある選手が引退しても、またある選手に受け継がれていく。2019年も新たな後継者が誕生した。その歴史を週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。 監督と総監督の間で
1950年に2リーグが分立すると、「50」を着ける監督が増え始め、一方で1リーグ時代から続く「30」の監督との2
大勢力に。中には監督が「30」で総監督が「50」、あるいはその逆、というチームも出てくるようになった。2つの数字の中間である「40」がコーチ、それも中心的なコーチの背番号となっていったのは、自然の成り行きだっただろう。
表舞台ではないが、チームが強くなるためには不可欠なスタッフワークに励んでいたのが「40」だ。それだけに人物とチームの意外な組み合わせもあり、“ミスター・タイガース”
藤村富美男も東映のコーチとして2年だけ「40」を着けていた。こうした潮流は長く続き、20年を経た70年代にも散見される。
【12球団・主な歴代「40」】
巨人 松田清、
宮本敏雄、
佐藤洋、
佐藤宏志、
谷岡竜平☆
阪神 並木輝男、
桑野議、
ラインバック、
桟原将司、
福永春吾☆
中日 空谷泰、
法元英明、
大島康徳、
藤波行雄、
益田大介、
石川翔☆
オリックス 井野川利春(兼任助監督)、
平林二郎、
福原峰夫、
金田政彦、
鈴木昂平☆
ソフトバンク 白崎泰夫、
柳田聖人、
脇坂浩二、
藤岡好明、
杉山一樹☆(2019年~)
日本ハム 保井浩一(二軍監督ほか)、
山下和彦、
實松一成、
高良一輝、
福田俊☆(2019年~)
ロッテ 大沢啓二(コーチ)、
佐藤和史、
干場崇永、
渡辺正人、
島孝明☆
DeNA 宮崎剛(兼任コーチほか)、
岩本堯(コーチ)、
大川隆(隆哉)、
桑原義行、
飛雄馬☆
西武 今久留主淳(コーチ)、
河野昭修(コーチ)、
笘篠誠治、
高木浩之、
田村伊知郎☆
広島
東山親雄、高橋慶彦、
達川光男、
倉義和、
磯村嘉孝☆
ヤクルト 宇佐美一雄(兼任コーチほか)、
水谷新太郎、
宮城弘明、
鈴木平、アルメンゴ、
市川悠太☆(2019年~)
楽天 益田大介、
吉崎勝、
土屋朋弘、
ファルケンボーグ、
ウィーラー☆
(☆は2019年)
広島では達川から捕手の系譜に

広島・達川光男
傾向が異なるのは巨人と中日。巨人の初代はテスト入団の松田清。着けたのは49年だけで、51年に19連勝、その翌52年の1勝と合わせた連続シーズン20連勝。すぐに西鉄の
稲尾和久が並んだものの、2013年に楽天の
田中将大が更新するまで長くプロ野球タイ記録だった。
その後、日系人スラッガーの“エンディ”宮本敏雄を経て、投手の出世ナンバーに。南海のエースとなった
山内新一、左腕の
新浦寿夫、変則サイドの
小林繁ら、豪華な顔ぶれが若手時代に着けていた。近年ではFAで日本ハムから加入した
河野博文が継承してセットアッパーとして活躍している。
中日は10球団の入札による争奪戦が問題となった空谷泰(のち
児玉泰)から、のちに名スカウトとなる法元英明を経て大島康徳の出世番号となり、トレードを拒否した藤波行雄が「3」から“降格”するなど波乱万丈だ。
球史に残る韋駄天が若手時代に着けた背番号でもある。まずは阪急の
福本豊が69年の入団から3年間。続いて広島で高橋慶彦が75年の入団から同じく3年間を「40」で過ごした。これを継承したのが捕手の達川光男だ。コーチや捕手も並んでいた広島の「40」だったが、6年目の83年に正捕手の座をつかむと、その後も不動の司令塔として投手王国を支え、黄金時代の大黒柱となった。以来、広島では捕手の系譜となり、倉義和を経て現役の磯村嘉孝へと受け継がれている。
写真=BBM