ニックネームは「商社」

赤いメガホンを手に、指示を送る金澤爽学生コーチ。慶大野球部の精神的支柱である
今春の慶大ベンチは、背番号51の動きが目立つ。常に
大久保秀昭監督のすぐ横に控え、赤いメガホンを持って選手たちを鼓舞する金澤爽(4年・済々黌)である。自チームの守りが終われば、真っ先にベンチを飛び出して、9人全員とハイタッチをして出迎える。
リーグ戦の登録上は「学生コーチ」だが、捕手として神宮でのプレーを目指している最上級生。大久保監督は入学時から金澤の自己犠牲、チームのために動く姿勢に着目していた。
大学野球は学生主体で運営していくのが理想形。大久保監督は何度も学生スタッフへの転向を勧めたが、金澤は現役選手への未練を断ち切ることができなかった。
しかし、最終学年ともなれば話は別。個人の問題だけでは、片づけられなくなった。昨秋のリーグ戦終了後、新チーム結成にあたり、指揮官からの熱きラブ
コールを受け、慶大では異例とも言える学生スタッフ兼任選手の誕生。しかも、副将の肩書もついた。チーム運営上、金澤はそれだけの超重要人物なのだ。
ニックネームは「商社」。つまり、選手だけでなく、学生コーチ、そして副将という重責を担い、どんな分野も全力で取り組むことから名づけられた。同級生、後輩から慕われる。主将・
郡司裕也(4年・仙台育英高)も「いてくれるだけで、安心感がある」と全幅の信頼を寄せている。
今春の東京六大学リーグ戦は最終週の早慶戦を前に、明大の5季ぶり40度目の優勝が決まった。慶大はすぐに、目標を切り替えた。
早慶戦は別物である、と慶大と早大の双方関係者は声をそろえる。
「早稲田に勝つ」
昨秋の早慶戦。慶大は46年ぶりの3連覇まであと1イニングから逆転を許し、4対5で涙を流した。慶大日吉グラウンドのスコアボードには、昨年10月29日のイニングスコアをずっと掲示してきた。リーグ優勝の可能性が消滅しても「早稲田に勝つ」という目標は不変。大久保監督は「あの悔しさを忘れず、この日のためにやってきた。4年生のかける思いは強い」と、ライバル早大との直接対決を心待ちにしていた。
慶大は6月1日の早大1回戦を落としたが、翌2回戦で雪辱(5対1)して1勝1敗としている。3回に一挙5得点のビッグイニング。2点を先制後、試合の主導権を握る3ランを放った
中村健人(4年・中京大中京高)は、同級生・金澤の存在感の大きさをこう語る。
「ものすごく良い、声をかけてくれるんです。試合中は集中していて、指示が聞こえづらい部分もあるんですが、金澤の声だけは届く。(右翼で)守っていても、自然とベンチの金澤からのジェスチャーを見てしまうんです」
三塁ベンチで完全燃焼
さて、大学4年生は人生の岐路である。早大1回戦が行われた6月1日は経団連が決める就職の「選考解禁日」。金澤は1回戦、そして2回戦後もすぐさまスーツに着替えて、就職活動先へ。2回戦後、1勝1敗のタイとした喜びの声を取材しようかと思ったが、「今日はすいません……」と深々と一礼し、三塁側ロッカールームから慌ただしく外苑前駅へと向かっていった。
聞くまでもない。三塁ベンチで1試合、完全燃焼した金澤の献身的な姿を見れば、言葉がなくても、チームへの思いを十分理解できた。
まだ、春のシーズンは終わっていない。勝ち点4、2位をかけた3日は雌雄を決する3回戦。今春から指揮を執る早大・
小宮山悟監督(元
ロッテ)は2回戦後に「明日、負ければ何も残らない」と決意を語っている。昨秋、屈辱を味わった慶大としても、早慶戦での悔しさは早慶戦でしか晴らせない。東京六大学らしい「対抗戦意識」がメラメラ。秋に良い形でつなげるために戦う、今春のラストマッチから目が離せない。
文=岡本朋祐 写真=田中慎一郎