現在、ホエールズとベイスターズ、70年の歴史をまとめた『1950-2019ホエールズ&ベイスターズ70年の航跡』が発売中だ。同書に球団の選手、関係者の証言で歴史を振り返る「時代の証言者」を掲載しているが、同企画をここに公開する。 トリオ結成の背景
そのネーミングと疾走感あふれるプレーにファンの心を鷲づかみにした「スーパーカートリオ」。左から屋鋪、加藤、高木
横浜スタジアムのカクテル光線に照らされ、縦横無尽にダイアモンドを駆け巡る3人の選手たち。彼らが塁に出れば、必ずと言っていいほど走った。「来るぞ、来るぞ」と胸をときめかす観客の視線。ピッチャーが足を上げればすかさずスタートを切り、次の塁を華麗に奪う。足を使ったスリリングな野球は、低迷していた横浜大洋ホエールズにあってファンから多くの支持を受けた。1シーズンで彼らが決めた盗塁の合計はなんと148個に及ぶ。
球史に残る驚愕の数字を残した“スーパーカートリオ”――3人が塁間を駆け抜ける韋駄天のごとき雄姿は、今でも多くの人たちの心に刻まれ、伝説として語り継がれている。
きっかけは1985年に
近藤貞雄監督が就任したことに始まる。1982年に
中日を優勝に導いた近藤監督は、当時としては革新的なアイデアマンだった。中日のコーチ時代にアメリカのピッチング理論を学び、投手の酷使による弊害を知ったことで日本球界でいち早く投手分業制を確立した。また代打や代走の起用も含め、チームが勝っていれば積極的に守備固めを使い、負けていればレギュラーを引っ込め次から次へとベンチの選手を起用するなど、そのモダンな戦術において他の指揮官とは一線を画す存在だった。
就任にあたり、近藤監督が考えたのは横浜スタジアムのフル活用だった。当時ハマスタはリーグで一番広い球場で、フェンスが高くホームランが出づらいスタジアムだと言われていた。ならば守りが堅く、足の速い選手を前面に出していこう。ここまでならば普通の発想だが、近藤監督は違った。足の速い選手を置くのならば通常は一、二番だが、クリーンアップの一角である三番にまで俊足の選手を置くことを近藤監督は決断した。
そこで白羽の矢を立てたのが、まず前年に盗塁王を獲得した
高木豊。レギュラーとして活躍する3割打者だ。2人目は足の速さに定評はあったが前シーズン11盗塁とまだ能力を生かしきれていなかった
屋鋪要。ゴールデン・グラブ賞を獲得した外野守備のスペシャリストでもある。そして3人目は1983年に
阪神から移籍をしてきた
加藤博一。33歳とベテランだったが阪神時代の1980年には34盗塁を記録している。
春季キャンプで3人の選手はそれぞれ監督室に呼ばれ、次のように告げられた。
「いいか、50個アウトになっていいから、100個走れ!」
こうして、スーパーカートリオは誕生した。
近藤監督のカミナリ
ちなみに当初、近藤監督は“スポーツカートリオ”と言っていたが、語呂の悪さと子どもを中心に起こっていたスーパーカーブームの影響もあり、スーパーカートリオとなった。
基本オーダーは一番高木、二番加藤、三番屋鋪。選球眼がよくミートの上手い高木が先陣を切り、野球をよく知る職人肌の加藤がエンドランや犠打などで小技を効かす。この年、加藤はリーグ最多の39犠打を記録している。
そして自分の役割において一番悩んだのが三番の屋鋪だ。当時を次のように述懐する。
「高木さんと加藤さんが得点圏内にいるときに打席が回ってくるから、そこで僕がかえさなければいけないという使命感もあって、初めのころはプレッシャーがきつかった」
誰よりも足の速い屋鋪ではあったが、近藤監督は基本的にはチャンスメークするタイプではなく、勝負強いバッターだと考えていた。結果的に屋鋪は、前年4本だったホームランを15本、打点を29から78に伸ばし、盗塁も含め見事に自分の役割を果たしている。
とにかく出塁すれば走ることを求められた。盗塁の判断を選手が自由にできる、いわゆる“グリーンライト”ではない。なにが何でも絶対に走らなければならないのだ。
盗塁が若干滞ったある日、3人は近藤監督に呼ばれ次のように言われた。
「今日、走らなかったら承知しねえぞ。3人ともメンバーから外してやるからな!」
それは烈火のごとき怒りだった。ただ、近藤監督からすると盗塁をしないから怒ったのではなく、次の塁を狙う姿勢を見せなかったことに苦言を呈していた。またファンは彼らの走りを期待している。プロとしてそれに応えるべきだと叱責をした。事実、スーパーカートリオが絡んで得点をすると球場は大いに盛り上がった。それは話題性の少ない横浜大洋というチームにとって、シーズンが進むにつれて金看板となっていた。
当時の自分たちの使命について、高木豊は次のように振り返る。
「ファンが僕らの盗塁を楽しみにしているのは理解していました。だから僕らもそれに応えたいと、あのころはよく3人でビデオ室にこもって相手投手のクセを探していたりしていましたね。クセを見つけるのが一番うまかったのは加藤さんでした」
NPB史上初の盗塁記録
だが、打って、守って、走りまくる野球は、想像以上に肉体を酷使した。打席で粘ってヒットか四球で出塁する。塁に出れば盗塁を仕掛け、隙あらば三盗を狙い、攻撃が終われば守備に集中する。これで疲れないわけがない。
「足にスランプないというけど、そんなことはないです」と断言する屋鋪は、その過酷さについて次のように続ける。
「走っても打者がファウルを打ったら戻らないといけないし、当時の四番は外国人が多かったので、どうしても打ちたがる。本当、盗塁のスタートは疲れますからね。ましてやあのころのハマスタは、カチカチのコンクリートの上に芝を敷いていた感じでしたから」
それでも3人は衆目が集まるなか、ダイアモンドを駆け巡った。最終的には高木が42盗塁、加藤が48盗塁、屋鋪が58盗塁を決め、3人で計148盗塁というとてつもない数字を残すに至っている。1チーム3人以上が40盗塁を同時に記録したのはNPB史上、この一度きりである。しかし数奇なもので3人は誰一人として盗塁王にはなれなかった。その年は、
広島の
高橋慶彦が73盗塁でタイトルを獲得している。
一方、チーム成績を見ると前年の最下位から4位になったもののAクラスには届かなかった。得点を見ても、優勝した阪神の731点に対し横浜大洋は589点。3人の走塁が万事、得点や勝利に直結したとは言い難い。
高木がその点について考察する。
「3人走って、3アウトでチェンジもあったし、僕らで満塁を作っても、その後、三振やゲッツーということも多かった。そういう意味で燃費の悪さというのはありましたよね。それにハマスタは当時広かったといっても、長打力のある打者から見れば決して広い球場とは言い切れなかった。そういう意味では違う野球を選択していたのかもしれません」
スーパーカートリオは翌シーズン、後半になると加藤が出場機会を失っていき、再びその真価を発揮することはなかった。実に短命であり、だからこそ強烈な光を放ち、強い印象として心に残っているのだろう。
走りまくったあの時代を高木は振り返る。
「ファンは喜んだけど、他球団は僕らを嫌がっていたし、特にキャッチャーはイライラしていましたね。試合時間は長くなるし、そういう意味では野球界に一石投じることのできたのかもしれない。大変だったけど、楽しかったですよ。今も多くの人がスーパーカートリオの名を口にしてくれる。元プロ野球選手として、こんな幸せなことはありませんね」
文=石塚隆 写真=BBM