昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 さすが豊田泰光!
今回は『1968年12月30日号』。定価は60円。
この号に関しては、また2回に分ける。
面白いかどうかは別にし、1回目の話が、かなり入り組んでいるからだ。流れを書くだけでも、相当量いってしまう。
ヤクルトの球界参入話だ。いまでは球界の“穏健派”だが、このときは結構、“イケイケ”だったようである。
企業としても急速に成長していた時期だ。
表面的な動きは、およそ3日で終わっている。
まず、1968年12月7日、あるスポーツ紙が「ヤクルトがプロ野球に参入!」と書いた。乳酸菌を使った飲料会社のヤクルトが、サンケイ・アトムズに対し、経営への提携を申し込んだ、という内容だった。
これに対し、翌8日、サンケイの福田オーナーが、あっさり「交渉に応じる」と発言。要は、下準備がしっかり終わっていた、ということだろう。
翌9日には、サンケイの福田オーナーが入院していた水野前オーナーと話し合った後、ヤクルトの松園専務と産経新聞社内で会談。松園氏から「経営に参加させてほしい」と正式な申し出があり、10日、福田オーナーが会見を開いて「提携することにした」と発表……という流れだ。
では、少しだけ深くいく。
ヤクルトは国策パルプ会長の南喜一が会長をしていたが、実質的に会社を指揮していたのは、松園尚巳専務だった。5年ほど前、南会長の関係で面識があった水野成夫当時サンケイオーナーに「イメージアップのため、プロ野球球団を持ちたい」と相談したという。
そのときは「まだ早い」と言われたらしいが、この会見の1カ月前、水野から連絡があり、「もういいだろう」と許可が出たという(当時サンケイが球団をすでに持っていたのか、サンケイの国鉄からの球団買収が決まり、松園が自分も、と思ったのかは定かでない)。
提携については、1億5000万円の資本金だったサンケイ球団は、今後、ヤクルト、産経新聞、フジテレビの三社経営となり、資本金、役員ともヤクルトが50パーセント出す、というものだった。
松園専務は「優勝するまで資金は出し続けるよ」と話し、記者たちに「いったいON(
王貞治、
長嶋茂雄)をとるとしたら、いくらくらいいるんだい」と質問した。意気軒高だ。
これが建前だった。
実際は、サンケイ内での水野派の衰退があった。ワンマンで知られた産経新聞社長・水野がメルセデス氏病(メニエール病の間違いか?)で入院し、そのまま社長を退任。グループ会社のフジテレビ・鹿内信隆社長が、産経新聞の社長を兼ねることになった。
鹿内は、水野の道楽と言われ、赤字を垂れ流していたアトムズの経営に消極的。売却は時間の問題かと思われた。
ここで動いたのが南だった。南と水野は、戦前はともに共産党員として活動し、互いに「兄弟以上の仲」と言っていた。
「何も知らんやつに渡すよりいいだろう」と、南が、会社が急成長し、野心家でもあった松園につないだのではないか。5年前の逸話が嘘とはいわないが、ふくらましてあるのかは確かなはずだ。
サンケイ球団は、
別所毅彦監督をはじめ、現場が大混乱となったが、コーチ兼任で次期監督とも言われた
豊田泰光は、さすが腹がすわっている。
「だれが経営するといっても、われわれが野球をすることに変わりはない。まさかサッカーをやるわけではないだろう」
と言ってニヤリと笑った。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM