歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 「永久に」続くかのような巨人の連覇

1974年、中日は歴史的な優勝を飾ったが……
1965年から始まった
巨人のV9。空前絶後の黄金時代であり、9年もの長きにわたって同じチームが頂点に立ち続けた異様な時代でもあった。
川上哲治監督の下、
王貞治、
長嶋茂雄の“ON砲”が打線の主軸に座り、投手陣も
堀内恒夫、
高橋一三ら盤石の布陣。65年から67年までは2位に10ゲーム以上の差をつけた圧勝、その後はゲーム差2ケタこそなく、73年には
阪神が最終戦まで食らいついたが、結局は巨人に軍配が上がった。
日本シリーズという短期決戦でも強さは変わらず。パ・リーグは南海の黄金時代から阪急の黄金時代への過渡期で、どちらのチームも強かったが、王手をかけられたことは1度もない。立大から58年に巨人へ入団した長嶋は徐々に年齢的な衰えを隠せなくなっていたが、早実高から59年に入団した王は73年に初の三冠王に輝くなど円熟味を増していた。もちろん戦力は“ON”だけではない。巨人の連覇は、いつかは終わると誰もが思いながらも、一方で、「永久に」続くようでもあった。
そして迎えた74年。現在では当たり前になっているが、セーブ制度が導入されたシーズンでもある。心臓の持病で短時間しか投げられず、リリーフ専門でV9の幕開けに大きく貢献した“8時半の男”
宮田征典を皮切りに、リリーフをメーンに投げる投手が増えてきた時代。投手は先発完投という時代から、格下のイメージがあったリリーバーに記録で光が当たり始めた。そんな時代の過渡期でもあった74年、ついに巨人の連覇も終わった。
それでも巨人は強かった。最初は巨人と、前年の最終戦で優勝を逃した阪神、現役時代に巨人を追われるように去った
与那嶺要監督の率いる中日が三つ巴となって首位を争う。中日も72、73年と巨人に勝ち越していて、あなどれない相手だった。まず脱落したのは阪神。中日は9月に入って首位に立つも、巨人も独走を許さず、優勝の行方は10月にもつれ込む。10月13日には後楽園球場で、直接対決の最終戦ダブルヘッダーが予定されていた。歴史に“if”は禁物だが、もし優勝争いが混迷を極め、最終戦ダブルヘッダーで優勝が決まるようなことになったとしたら、プロ野球の歴史は大きく変わっただろう。ただ、そう簡単に名勝負は生まれない。同じダブルヘッダーながら、その前日、12日に、中日球場で大洋に連勝したことで、中日の優勝が決まった。
与那嶺監督は72年に就任すると、「巨人には弱点がたくさんある。負けるわけないネ」と言い続けた。それだけではない。投手陣の軸だった
星野仙一は奇しくもV9が始まった65年に第1回を迎えたドラフトで巨人と因縁があり、巨人戦に燃えた。54年に初優勝、日本一を飾って以来、優勝と無縁だった中日の悲願は、巨人のV10を阻む歴史的な優勝となる。しかし、翌日の新聞を大々的に飾ったのは、そんな中日の快挙ではなかった。
新たな悲願の始まり
中日の優勝が決まった12日。優勝を逃し、試合を終えた巨人は、そのまま神宮球場で記者会見を開いた。長嶋、引退。翌日の新聞は、巨人の連覇が途切れたというエポックよりも、プロ野球を国民的スポーツに押し上げたヒーローがグラウンドを去るというエポックを大きく報じたのだ。記者会見で長嶋は「ファンへのお別れは、明日のダブルヘッダーで」と語った。歴史に残る名勝負となる可能性もあったダブルヘッダーは、1人の男が現役生活を終える最後の舞台となる。
ただ、その13日は雨天中止に。その雨が嘘のように晴れた翌14日、長嶋は現役を引退した。歴史に残ったのは名勝負ではなく、伝説の引退セレモニー。対戦相手の中日は、主力は本拠地の名古屋で優勝セレモニーがあるため、試合を欠場した。もちろん、その翌日も、話題の中心は中日の優勝セレモニーではなかった。
中日は
ロッテとの日本シリーズで2勝4敗と2度目の日本一には届かず。優勝という悲願が達成された瞬間は、日本一という悲願が生まれた瞬間でもあった。その後、82年、88年、99年と3度の優勝も、日本一には届かず。日本一に輝いたのは、21世紀に入ってからだった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM