名球会入りの入会資格となる通算2000安打。プロの世界へ新たに入団した選手が目標に掲げることも珍しくない大記録だが、そのハードルは高い。打撃技術はもちろん、長年スタメンで試合に出続ける強靭な肉体と精神力が必要とされる。かつて、「天才打者」と呼ばれながら、この記録に届かなかった選手たちを振り返ってみよう。
高橋由伸(元巨人)
1753安打
※1819試合出場 通算打率.291、321本塁打、986打点
誰もが認める球界屈指の「天才打者」。桐蔭学園高、慶大を経て複数球団の争奪戦の末、逆指名で1998年に巨人に入団。1年目から打率.300、19本塁打の好成績でレギュラーに定着すると、7年目の04年に通算1000安打に到達。史上8位のハイペースだったが、外野の守備で全力プレーによる代償で幾度も戦線離脱するなど、05年以降規定打席到達は07年の一度のみだった。それでも打撃技術はサビつかず、15年に代打打率.395をマーク。翌年も現役続行の意向を示していたが、
原辰徳監督が同年限りで退任する意向を示して球団から監督就任要請を打診されたため受諾。ファンに惜しまれながらも現役引退した。
・谷佳知(元オリックス、巨人)
1928安打
※1888試合出場 通算打率.297、133本塁打、741打点
1996年のアトランタ五輪に出場し、97年オリックスに逆指名で入団した。卓越したミート技術で空振りが少なく、プロ19年間で00年の71三振が最多で、ほかの年は30~40三振という少なさだった。右打ちの技術は芸術品と呼ばれ、2003年に21本塁打を放つなどパンチ力もあった。01年には日本記録の52本の二塁打をマーク。巨人にトレード移籍した07年以降も安打を積み重ねていたが、若手の台頭もあり出場機会を減らし、13年限りで退団。8年ぶりに古巣のオリックスに復帰したが14年は2安打、15年は5安打に終わり同年限りで現役引退した。通算2000安打にあと72本まで迫ったが、届かなかった。
・松永浩美(元阪急、オリックス、
阪神、ダイエー)
1904安打
※1816試合出場 通算打率.293、203本塁打、855打点
現役時代は「史上最強のスイッチヒッター」と形容され、打率3割を通算7回、サイクル安打を通算2回記録。1試合左右打席本塁打を通算6回マークし、
日本ハムの
フェルナンド・セギノールに破られるまで日本記録だった。小倉工高を中退して78年にドラフト外で阪急に入団したが野球協約に抵触したため選手登録ができず、用具係の名目による練習生扱いを経て、79年に支配下選手となった異色の経歴を持つ。抜群の野球センスで攻守走そろったスター選手として活躍し、安打を積み重ねた。93年に阪神にトレード移籍したが、同年オフに日本球界初のFA権を行使して1年限りで退団。ダイエーに移籍した際は大きな波紋を呼んだ。移籍1年目は打率.314の好成績を残したが翌年以降はケガや打撃不振で出場機会が年々少なくなり、97年限りで自由契約を申し入れて退団。メジャー・リーグに挑戦する意向を表明したが、アスレチックスの入団テストを受けて結果を残せず現役引退した。
・松中信彦(元ダイエー、
ソフトバンク)
1767安打
※1780試合出場 通算打率.296、352本塁打、1168打点
「平成唯一の三冠王」。2003~05年まで3年連続120打点はNPB史上初の快挙だ。96年のアトランタ五輪で全日本の四番を務め、97年ダイエーに逆指名で入団。3年目にレギュラーに定着すると不動の主軸として活躍した。内角の球をあえて芯を外して打つことで右翼ポール際の打球もファールにならない高等技術で本塁打を量産。01年には
松坂大輔(
西武)の直球にバットを折られながらも福岡ドームの右翼席に運ぶ一発を放ち、度肝を抜いた。長距離砲には珍しく100三振したシーズンがない。ミートセンスが抜群で、04年に三冠王を獲得。06年1月に日本人最長の7年間の複数年契約を結んだが、度重なる故障の影響もあり成績が年々低下。15年限りで退団し、他球団での現役続行を熱望したが獲得球団がなかったため現役引退した。
写真=BBM