歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 「ずっと使ってくれたら3割はいける」
初対面の人に対して、誰しもが何らかの印象を持つ。いわゆる第一印象というものだ。これには、他者の言動や外見、雰囲気などとともに、自身の経験などに由来する判断力のようなものも影響を与えているだろう。そのバランスが偏り、自身の感覚が肥大化すると、それは先入観となり、他者の実像と離れていってしまう。バランスが取れていたとしても、自身の感覚で他者を見るということは先入観の一種なのかもしれない。それくらいの危機意識をもっていたほうが、他者に誤ったレッテルを貼るリスクを回避できそうだ。
実際、ひとたび誤った先入観で“初期設定”されてしまうと、そこから脱却するのは難しい。中には状況が変わったことに対応するのが苦手で、どんなに新しい情報を上書きしても脳内の情報が更新されない人もいて、そんなときは思わず人間関係を“強制終了”したくなるのだが、残念ながら人間はリセットできないし、してもいけない。人生のノウハウで「第一印象は大切です」などと言われるのも、そういうことなのだろう。
近年は昔ほど言われなくなったが、かつて「左打者は左投手に弱い」というのはプロ野球の定説だった。そして、そのイメージで語られる打者の筆頭は、巨人と近鉄で活躍した淡口憲治ではないだろうか。だが、淡口は「実際は、そんなに(左投手に対する)打率も悪かったわけじゃないんですけどね」と苦笑い。そして「左は不得意というレッテルを貼られていました」と言い切る。
1971年に巨人へ入団し、
長嶋茂雄監督1年目の75年に代打として頭角を現した。5月からは先発も増え、三番、五番で
王貞治の前後を打つことも多かったが、規定打席には届かず。翌76年には
柳田俊郎、
原田治明、三田学園高のチームメートでもあった
山本功児と“左の代打カルテット”と呼ばれ、4月は打率.407、8月18日の時点でも打率.330で“隠れ首位打者”といわれたが、やはり規定打席に届かず、打率も3割を下回った。最終的には巨人で6度、近鉄で1度、シーズン350打席を超えたが、「自慢じゃないけど、規定打席に足りたのは1回だけ。ずっと使ってくれたら3割はいける、と思っていました。83年に初めての規定打席で打率.302。やっと証明ができたと思いました」(淡口)。
「尻じゃなくて腰なんです(笑)」
巨人では次々に外国人選手が加入し、そのたびに外野のポジションを争った。「彼らが打つならあきらめもつくんですが、そうでもなかった(笑)。巨人は大物が多いので、ある程度、打たなくても使わざるを得ないんですね」(淡口)。
85年オフには、捕手の
有田修三とのトレードを投手の
定岡正二が拒否して引退し、淡口が近鉄へ移籍することに。「まず『身代わりですか』って聞いたら『違う』って。どう考えても身代わりですけどね(笑)」(淡口)。近鉄では89年の優勝にも貢献し、巨人との日本シリーズを最後に、ユニフォームを脱いだ。
巨人での若手時代、筑波大のテストで王のスイングスピードを上回る140キロが計測され、それが球界最速ともいわれた打球スピードを呼び、“コンコルド打法”といわれた。「長嶋さんが、当時あった超音速旅客機のイメージだと、つけてくれました。野手が捕れない打球、早い打球を打てたらプロで生活していけると思ったんですよ」(淡口)。打席で構えて2度から3度、尻を振るのも印象的だが、「ファンの方から尻を振ってセクシーと言われましたが、ほんとうは尻じゃなくて腰なんです(笑)」(淡口)。
レギュラー張り続け、左投手でも代えられなかったら、レッテルを払拭することもできたかもしれない。その逆もしかりだ。その意味では、決して恵まれた現役生活ではなかったのかもしれない。一方で、好調でもレギュラーに定着できないという限られた出番で、これほどまでにインパクトを残した選手も珍しい気がする。当時、そのスイングスピードや打球スピードには遠く届かなかったが、その尻を振る打法を真似する野球少年は、たくさんいた。少なくとも、その出番を少年ファンは心待ちにしていたのだ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM