不発の短期間リレーも……

阪神の背番号「44」と言えば歴代最強助っ人のバースだ
2020年まで3年連続でゴールデン・グラブに輝いた捕手の
梅野隆太郎が背負っていた阪神の「44」。迎えた21年、梅野が「2」に変更したことで、「44」は新外国人の
アルカンタラが継承することになった。アルカンタラは投手だが、助っ人が「44」を着けることで、期待に胸を膨らませるファンも少なくないはずだ。その脳裏には、1985年、26年ぶりリーグ優勝、2リーグ制で初の日本一に輝いた阪神の三番打者として54本塁打、134打点、打率.350で三冠王に輝いたバースの姿が浮かんでいるはずだ。同じ時期にライバルの
巨人で活躍していた
クロマティの「49」は紹介したばかりだが、「44」も同様、「4」が並んでいるということで日本人の選手から避けられる傾向の強かったナンバーで、ほとんどのチームで古くから助っ人が並ぶ系譜。83年に来日したバースは助っ人では6代目だった。
最初に背負った助っ人は75年に
ロッテから移籍してきた
アルトマンで、これが日本でのラストイヤーに。翌76年に継承したのが“赤鬼”
ブリーデンだ。バースと同じ一塁手で、来日1年目からチーム最多の40本塁打を放った長距離砲だった。ブリーデンの退団で79年に継承したスタントンは23本塁打も136三振と大味で“大型扇風機”や“打たんトン”とも揶揄され、1年で退団。翌80年は南海(現在の
ソフトバンク)から
ヤクルトを経て移籍してきた右腕の
中山孝一が着けて引退したが、その後はオルト、
ジョンストンと助っ人の野手が1年ずつでリレーして、バースの背中で歴代の最長を更新した。
バースも来日1年目はオープン戦の死球禍や慣れない外野守備に苦しみ、シーズン途中で解雇される可能性もあったが、結果的に残留となると、シーズン終盤に球団新記録の25試合連続安打を放つなど本領を発揮するように。“猛虎フィーバー”の85年に続いて、翌86年にも2年連続で三冠王に輝いている。6年目の88年シーズン途中に家族の病気が原因となって退団。翌89年に継承したフィルダーは来日で覚醒した異色の選手で、阪神を1年で退団してメジャー復帰1年目から2年連続で本塁打王、3年連続で打点王と大爆発している。
これで助っ人の系譜が途切れ、以降「44」の助っ人は97年のハイアット、2013年のボイヤー、現役のアルカンタラの3人だけだ。歴代に助っ人が並ぶ系譜といっても、大成功を収めたのはバースくらいで、不発の短期間リレーという印象も強いが、見方を変えれば、当たれば大きいということでもある。アルカンタラの「44」が長続きしたとき、阪神に歓喜が近づいてくるかもしれない。
一方、捕手の梅野が「44」を背負っていた姿に懐かしさを覚えていたファンも少数派ながらいたのではないか。助っ人の系譜になる以前、阪神の「44」には“捕手ナンバー”という横顔もあった。
梅野は捕手の“出世頭”

昨年まで7年間、「44」を背負っていた梅野
阪神の「44」が初めて登場したのは2リーグ制となった1950年。まだ外国人選手は不在で、しばらくは日本人の選手による短期間リレーが続いた。風向きが変わったのが63年だ。新人で捕手の
辻恭彦が着けると、徐々に出場機会を増やし、6年目の68年に「20」でブレークする。同時期の捕手に同姓の
辻佳紀がいたことで“ダンプ辻”と呼ばれ、71年には全試合に出場。V9を謳歌するライバルの巨人に牙をむいた時代の阪神を彩る名選手だ。
69年に南海から移籍してきて辻に並ぶ5年間「44」を着けた
藤田訓弘も捕手だったが、結果を残すには至らず。時は流れて、98年に
広島からの移籍で着けた
吉本亮が25年ぶりの捕手で、2014年に継承したのが梅野だ。1年目から即戦力となって、4年目の17年には正捕手になった“出世頭”。「44」のまま正捕手となったのも梅野が唯一で、着けた期間も最長だ。
野手では、2年に「67」から変更して04年にブレーク、「3」へと“出世”した
関本健太郎(賢太郎)もいる。ちなみに、やはり60番台の背番号でブレークして、この「44」を欲しがったというのが
新庄剛志だ。「5」となった92年オフのことだが、バースにあこがれてのことではなく、ドジャースで着けていたストロベリーを見てカッコいいと思ったかららしい。
【阪神】主な背番号44の選手
辻恭彦(1963~67)
ブリーデン(1976~78)
バース(1983~88)
梅野隆太郎(2014~20)
アルカンタラ(2021~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM