明大からドラフト1位で巨人へ

外野、内野で連続してダイヤモンドグラブ賞を手にした高田
外野と三塁で、ともに守備の名手と言われた稀有な選手が元
巨人の
高田繁だ。1972年から77年までダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を獲得しているが、うち75年までが外野、76、77年が三塁。外野手から内野手と続く受賞は当時、例がなかった。
中学時代は投手。浪商高に入ってから外野に回り、1年夏には背番号14で甲子園出場。当時のエースは1年先輩の怪腕・
尾崎行雄だった。高田はレギュラー選手が病気となったことで2回戦からレフトのスタメンに入り、攻守で優勝に貢献した。
その後、投手に戻ったが、高校3年時に南海の
鶴岡一人監督が「内野手で入団してくれ」と熱心に誘い、あとは契約書にサインするだけだった。しかし学校関係者の勧めで明大へ。高田が「なんで明大か分からないけど、知らないうちに決まっていた。あの人がいるのを知っていたら入らなかったかもね」と笑うのが、“御大”こと、島岡吉郎監督だ。
優等生だった高田は、島岡に殴られなかった数少ない一人とも言われている。それもそのはず、1年秋からセンターのスタメンをつかみ、7季連続ベストナイン。通算127安打をマークした。
68年、ドラフト1位で巨人入団。1年目は
柴田勲の不振もあって、開幕第2戦から柴田に代わって一番・センターで起用されると6打数2安打。5、6月は月間打率3割3分台と打ちまくり、この年アニメ化された人気劇画から、“巨人の星、登場!”と騒がれた。夏場には疲れも見えたが、終盤はライバル
阪神戦で快打を連発し、V4に貢献。巨人が苦手とした左腕・
江夏豊キラーでもあった。規定打席到達はならなかったが、打率.301で新人王も手にした。
迎えた阪急との日本シリーズでも一番に入って、打率.385の大活躍。新人ながらMVPにも輝いた。オフには中学時代から交際し、明大卒業後に結納を交わしていた夫人と挙式。「シーズン中も成績が悪かったら、僕も彼女も何を言われるか分からないから必死でした。それがいいほうにいったのかな」と振り返る。
勝負強い打撃と71年には盗塁王にもなった走塁技術に加え、俊足を生かしたレフト守備に定評があり、“壁際の魔術師”の異名も取った。
「70年、
ロッテとの日本シリーズで2本くらいジャンプしてホームラン性の当たりをキャッチしてから、そう言われるようになった。ただ、守備範囲は広かったが、特別、壁際が強かったとは思わないけどね」
長嶋監督が三塁転向を指示

打撃では76年に初の打率3割をマーク
むしろ自信があったのはクッションボールの処理だ。後楽園球場のレフト線への単打が“高田ヒット”と言われたことがあるが、これは高田でなければ二塁打になっているからだ。クッションボールの返りを的確に予測して、二塁へ矢のような送球。「一瞬の判断ですね。迷ったら間に合わない。しばらくしたら、みんな一塁で止まるようになって補殺も減った」とも語っている。
名人芸を支えるのが練習と研究だ。練習で何度もフェンスに球をぶつけ、戻る球の傾向をチェックした。
「最初はフェンスの広告の位置で跳ね返る方向を覚えたが、途中から完全に頭に入った。ビリヤードと同じで、この角度で当たったらこの角度で跳ね返るというのがあるんです」
しかし75年オフ、最下位からの巻き返しに燃える
長嶋茂雄監督が三塁転向を指示した。三塁守備に不安があったジョンソンをセカンドに回し、レフトに
日本ハムから来た
張本勲を入れようとしたからだ。長嶋監督は高田のコンバートについて「外野にいても構えもスタートも内野手と同じだったから」と語っていた。
そこから高田は正月返上で猛練習。張本だけではない。前年から
淡口憲治が台頭。このコンバートに失敗すればもう行く場所はない、と覚悟を決めた。激しいノックに手がはれ上がり、肩もパンパンになった。
ラッキーだったのは76年から後楽園球場に採用された人工芝だ。球足は速くなるが、ほとんどイレギュラーがないので、球の速さだけに慣れれば良かった。さらに多摩川のサブグラウンドに球場と同じ人工芝が敷かれ、「人工芝に一番早く慣れた三塁手」になれたことも大きい。
鮮やかな青いグラブをつけた高田は開幕から躍動。バッティングにおいても“高田ファウル”とも言われ、三塁線に切れる大飛球が多かったが、この76年はセンター方向に意識を置き、念願の3割台で、打率.305。奇跡の優勝を遂げた長嶋巨人の象徴的な選手となった。
79年以降は
中畑清の台頭で出番が減り、80年限りで引退。引退セレモニーは
王貞治と一緒に行った。
写真=BBM