魔球シンカーで打者を翻弄

足立のシンカーは空振りを奪うのではなく、バットの芯を外すものだった
「騒ぐなら、騒げ」
1976年、
巨人との日本シリーズ第7戦。阪急先発の
足立光宏はそうつぶやいた。巨人は3連敗から逆襲。3連勝でイーブンとしていた。
舞台は敵地・後楽園。巨人を指揮するのは、幾度も奇跡のドラマの主役となった
長嶋茂雄だ。逆転の予感に球場の9割近くを埋めた巨人ファンが興奮状態となり、これまで日本シリーズで巨人に5度敗れていた阪急ナインは「また、今回も勝てないのでは」と浮足立っていた。
一人平然としていたのが足立だ。V9時代、ことごとく巨人に苦杯をなめた阪急だが、足立は阪急が挙げた8勝のうち5勝を一人で勝ち取っていた。大舞台になればなるほど冷静になり、結果を出してきた男だ。
この日も勢いに乗る相手の気迫、巨人ファンの大歓声を柳に風と受け流し、「警戒するのは王(貞治)だけ。やばかったら歩かせればええだけや」と見事な完投勝利。阪急は初めて日本シリーズで巨人を倒した。
中学3年のとき、ヒジ痛で1年間野球を離れ、高校で復帰。その際、上から投げると、まだヒジに痛みがあったので、徐々に腕が下がっていったという。大阪大丸時代、鐘紡の補強選手で出場した都市対抗野球で注目を集め、59年阪急入団。4年目の62年5月24日の南海戦(西宮)では速球主体で押し、当時の日本最多記録1試合17三振を奪っている。
63年に就任した
西本幸雄監督の下、徐々に勝利を増やし、67年の球団初優勝時には20勝を挙げ、最優秀防御率(1.75)でMVPに輝いた。
ただ、翌68年に肩を痛めて長期離脱。故障の影響で球速が落ちてからは魔球とも言われたシンカーで打たせて取るスタイルに変え、71年に19勝を挙げた。
その後も体力の衰えで勝利数が減ると、カーブの種類を増やし、打者心理、呼吸を見抜く老獪な投球術を磨く。76年には17勝8敗と復活。前述のように巨人との日本シリーズでも快投を見せた。
しかし、右ヒザの水が慢性的にたまるようになったこともあり、80年限りで引退。実働21年だった。
写真=BBM