多彩な顔、もうひとつの同じ顔
この2021年は
ソフトバンクの監督に就任して7年目となる
工藤公康。チームは黄金時代にあることから晴れの舞台に登場することも多く、それが現役時代の姿に上書きされている印象もあるが、選手としては現役生活29年を投げ抜いた左の鉄腕だった。と、ひと言で言い切れないのも工藤だ。長い時間を第一線で過ごしたこともあるが、複数のチームで、さまざまな顔を見せた。
キャリアをスタートさせたのは西武。1982年に入団、着実に頭角を現して、世代交代を成功させて黄金時代を謳歌した西武で投手陣の主軸を担った。若者らしい言動に加えて陽気なキャラクターも際だっていて、当時、流行語となった“新人類”を象徴する存在として流行語大賞の表彰式に出席したこともあった。導入されて2年目のFAでダイエー(現在のソフトバンク)へ移籍したのが95年。長く低迷を続けていたチームで戦力の礎を築き、99年に優勝、日本一へ導くと、ふたたびFAで2000年に
巨人へ移籍した。そして、いきなり優勝の原動力となって、日本シリーズでは古巣のダイエーに立ちはだかって日本一にも貢献。円熟味を増して、“優勝請負人”と呼ばれていた時代だ。
ダイエー時代の工藤
だが、プロ25年目を終えると、07年にはFAの人的補償で横浜(現在の
DeNA)へ。“ハマのおじさん”を自称(自虐?)しながらも深刻な低迷にあえぐチームで渋い輝きを放ち、移籍1年目に巨人戦で勝利投手となって、プロ野球で初めて近鉄、
楽天を含む13球団から勝ち星を挙げた投手となった。09年オフに自由契約となり、原点の西武へ。その10年は10試合に登板し、これが結果的にラストイヤーとなったが、そのオフに自由契約となってからもトレーニングを続けていた。ただ、肩の調子が上向かなかったことで、11年12月に引退を表明。この“浪人”時代も含めれば、30年もの長きにわたるの現役生活だったことになる。
長い現役生活を送った選手でも、若手かベテランか、などの違いはあっても、やはり同一人物。しわの数は増えてきても、同じ顔をしているものだ。一方、あぶなっかしい“新人類”、ふてぶてしい“優勝請負人”、どこか達観したような“ハマのおじさん”、そして執念を感じさせた西武ラストイヤー。工藤ほど多彩な顔を見せた選手は少ない。この工藤の長きにわたる現役生活を知るファンにとっては、どの工藤が最も印象に残っているかは大きく分かれるだろう。
巨人時代の工藤
そんな工藤が、ほぼ一貫して背負い続けたのが「47」。ダイエーでは
杉内俊哉、西武では
帆足和幸、巨人では
山口鉄也と、それぞれ左腕が継承して大成、一時代を築いて、左腕を象徴する背番号となった。左腕ナンバーとしては国鉄と巨人で通算400勝を残した
金田正一、
中日ひと筋の
山本昌らが着けた「34」の歴史も長いが、エースナンバーが継承されることで成立するものだとすると、工藤が起点となった「47」は21世紀の左腕ナンバーといえる。ただ、プロ1年目に西武で「47」を与えられた工藤は、「特に何も思わなかった」という。
すべての日本シリーズで
横浜時代の工藤
よほどのことがない以上、着けているうちに愛着が沸いてくるというのが背番号というものなのだろう。工藤も「どうせなら自分の力で特別な背番号に」と思うようになったという。だが、FAで移籍したダイエーでは「47」は助っ人のライマーが着けていて、やむをえず「21」に。工藤も違和感があったようだが、これはファンも同じだったはずだ。2年で念願の(?)「47」となり、“優勝請負人”の道を突き進んでいくことになる。
巨人、横浜でも「47」でプレーした工藤だが、最後のユニフォーム姿となった西武では「55」。どうせなら大ベテランとなって帰ってきた工藤が西武の「47」を背負う姿を見たかったというファンも少なくなかっただろうが、このときは帆足が「47」を着けていて、「48」「34」で5年間を過ごし、待望の「47」になって5年目を迎えたばかりだった。
29年間の現役生活にあって、そのうち26年間を「47」で過ごした工藤。日本シリーズ出場は14度を数えるが、その大舞台には、すべて「47」で出場している。
【工藤公康】背番号の変遷
#47(西武1982〜94)
#21(ダイエー1995〜96)
#47(ダイエー1997〜99)
#47(巨人2000〜06)
#47(横浜2007〜09)
#55(西武2010)
文=犬企画マンホール 写真=BBM