3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。バックナンバーを抜粋し、紹介する連載を時々掲載中です。 カネやんの探りで逆に挑発?

機動隊に守られ球場を出るロッテナイン
今回は『1973年6月18日号』。定価は100円。
1973年6月1日からの太平洋─ロッテの3連戦は、前代未聞の厳戒態勢の中で行われた。今回はそのリポート記事の抜粋をしようと思うが、長いものだったので、何回かに分けて掲載する。
開幕前から何かと衝突してきた両チーム。当初はフロント同士の駆け引きだったり、ロッテ・
金田正一監督、太平洋・
稲尾和久監督のやや話題づくり臭のあった“口喧嘩”だったりしたのだが、5月1、3日川崎球場での戦いでは、ファンを巻き込む乱戦となり(というか太平洋ファンが参戦した)、金田監督が「どん百姓」「乞食野郎」などと発言し、問題となった。
この戦いは、それ以来の対戦だが、何と言っても舞台は平和台である。
何も起こらないはずがない。
博多は盛り上がっていた。
まず初戦の6月1日、試合開始までまだ4時間もある午後2時から、平和台球場に向かう道に屋台が並び、客引きが始まった。午後4時くらいに道路の混雑が始まり、切符売り場の列が長くなる。
玄関にバスが横付けされ、ロッテナインが球場入りしたのが午後4時半。逃げるように球場入りし、その後、外野でランニング、体操と練習を始めた。ランニングでは、金田監督がいつものように手や足を振り上げながら最後列で選手を追いかける。
そのあとベンチに戻ると、金田監督は報道陣の一人を相手にキャッチボール。例によってオーバーアクションで、盛んに声を出す。すでにスタンドにいたファンが、金田監督を見つけ、ロッテベンチの上に集まってきた。
それを太平洋ベンチで見ていた稲尾和久監督が、「カネさんも分かってないな。ここはうちのホームグラウンドなんだぜ。ファンが喜ぶと思ったら大間違いだ」とボソリ。
確かにそうだった。ベンチの上には高さ3メートル60センチの金網が設置されていたが、何人かの太平洋ファンは最初からケンカ腰で怒鳴りまくる。
「おい金田どん百姓と言った理由を説明しろ」
「いいカッコするな」
「博多をなめるなよ」
金田監督は、20球ほどでベンチに引っ込むと、「探りを入れてみたんや。騒ぎそうなのは5、6人やな。あと怖いのは群集心理だけや」と冷静な分析をしていた。いつも思うが、この人の観察眼は鋭い。
午後5時半。内野席はほぼ埋まり、ロッテベンチ上にはますます人が増える。ヤジはどんどんエキサイトし、口汚くなっていく。
「マネジャー!」と金田監督が呼びつけると、「太平洋のフロントに行って、ベンチの上にいるファンを散らせるようにいってこい」と怒りの表情で怒鳴った。
1回表、ロッテの攻撃。金田監督がいつものようにゆっくりと三塁コーチスボックスに向かうと、途端に球場全体からどよめきが起こる。「さすがに、きょうは立たないだろう」という声が多かったからだ。
金田監督はまず三塁側に向かって帽子を取った。満面の笑みを浮かべて。そして同じように一塁側にも。しかし球場を揺るがす声は、決して歓迎ではなかった。
3万1000人の大観衆の、ほとんどが太平洋ファン。最初はまだよかったが、試合が劣勢になると、どんどん殺気立っていった。
ロッテファンはロッテ選手がホームランを打っても拍手もせず、じっとしていた。数人のガラの良くない太平洋ファンが試合中、係員の制止も振り切り、三塁側をうろつき回り、ロッテファンを脅していたこともある。
しかし8回裏太平洋攻撃終了後、ついに一人のロッテファンが切れる。その一人にウイスキーの小瓶で殴りかかり、男は額を切られ顔面血だらけになった。
ここから小競り合いが起こり、ロッテの三塁を守っていた有藤の足元までビール瓶が飛んできた。物の投げ入れは、太平洋が敗れたこともあって、試合終了と同時にさらに激しくなり、座布団、ビール瓶、缶ビール(ともに中身入りも)、弁当と罵声とともに手当たりしだいに物が投げこまれ、ゴミの山ができた。
お客さんが球場から去り、球場内の灯が消えてからもロッテナインを待ち受け、正面玄関の前にファンが集まって次々投石。食堂のガラスが割られた。中には小学生らしき子どもも交じっていた。
騒ぎが終わるまで通路に避難していたロッテナインは、球場からファンがいなくなると、ベンチに戻り、金田監督がゴミを集めて火をつけた。
「とにかく情けない。ワシの人生経験でも、こんな不愉快なことはなかった。野球は楽しくやりたいと思っているのに」
ロッテナインが球場を出たのが夜11時。機動隊に守られ、宿舎に戻った。
では、また。
<次回に続く>
写真=BBM