衣笠の後釜に苦しんだ広島

87年限りでユニフォームを脱いだ衣笠
衣笠祥雄は、
広島が25年ぶりリーグ優勝を飾った2016年のインタビューで、以下のように語っている。
「僕は引退まで2215試合ずっと全試合出場させていただいたのですが、誰も言ってくれないけど、もし僕が明日、選手登録されて、試合に出場したら、この連続試合出場がつながるんですよ。笑われるかもしれないけど、ずっと思ってます」
その連続試合出場が始まったのは1970年シーズン終盤。そのまま87年いっぱいで現役を引退するまで、試合を休むことがなかった。時には故障は不振もあったものの、プロ20年目の84年に初めて打率3割を突破するなど、あからさまな衰えはなし。ラストイヤーの87年にも17本塁打を放っている。盟友といえる
山本浩二と同様、惜しまれつつの引き際だった。
そうなると、この夢の世界では、まだまだ連続試合出場を続けてほしくなる。もちろん、引退という形ではなく、それまで克服できた故障や不振が乗り越えられなくなり、途切れてしまうという結果になったかもしれない。ただ、そこは夢の世界。ラストイヤーと大きく変わらない成績で、その後も“鉄人”衣笠が出場を続けていた姿を想像してみたい。
87年のベストオーダーでは、衣笠の打順と守備位置は「五番・三塁」だった。黄金時代にあった広島だが、その87年は
巨人に王座を奪われて、そのまま4年連続でV逸。この間、三塁手が固定されたとは言い難い。ベストオーダーでは、88年が七番の
片岡光宏、89年が三番の
ウェイド・ロードン。90年は外野から二番の
山崎隆造が入っていた。V奪還の91年に三塁手として頭角を現したのが
江藤智。このときは七番が多く、三塁と右翼を兼ねていた山崎が五番打者を務め、三塁手としてベストナインに選ばれている。いわゆる投手王国は健在だったから、実際の広島は衣笠の穴を埋めるのに苦労したことも優勝から遠かった一因だったといえるかもしれない。
この間、89年に山本監督が誕生して、2年連続で2位。実際は巨人の連覇で、広島は89年こそ9ゲーム差と健闘したが、90年は22ゲーム差と巨人の独走を許している。では、山本監督1年目の広島に衣笠がいたら、どんなラインアップとなっていただろうか。
1(二)
正田耕三 2(右)山崎隆造
3(三)衣笠祥雄
4(一)
小早川毅彦 5(左)
ロッド・アレン 6(遊)
高橋慶彦 7(中)
長嶋清幸 8(捕)
達川光男 9(投)
川口和久 90年のオーダーも変化?

1989年には22本塁打をマークしていたロードン
今回は三塁手のウェイド・ロードンがいた三番に衣笠を入れただけだが、外れたロードンも89年は22本塁打、三塁のゴールデン・グラブ賞に選ばれるなど、その堅守にも定評があったから、衣笠が控えに回った可能性もあるだろう。ただ、翌90年は失速しており、衣笠が不動の三塁手に返り咲けば、山崎が外野から回ってくることもなかった可能性がある。すると、翌90年のラインアップも違ったものになったのではないか。
ちなみに90年は高橋慶彦がトレードで
ロッテへ移籍、
野村謙二郎が遊撃手としてブレークしたシーズン。衣笠が「三番・三塁」で残っていて、山崎が右翼手のままでいたと仮定して、衣笠を90年のベストオーダーに入れると、以下のようなラインアップとなる。
1(遊)野村謙二郎
2(右)山崎隆造
3(三)衣笠祥雄
4(左)ロッド・アレン
5(一)小早川毅彦
6(中)長嶋清幸
7(二)正田耕三
8(捕)達川光男
9(投)川口和久
ここで外れたのは高橋との2対2のトレードで来た右翼手で三番の
高沢秀昭だが、高沢は91試合の出場にとどまっており、打順は変わるかもしれないが、三塁に衣笠が固定されている布陣は安心感があり、22ゲーム差をくつがえせずとも、実際ほど巨人の独走を許すことはなかったのではないだろうか。続くは91年、衣笠と同じく捕手から転向の江藤とのポジション争いに興味が移ってくる。では、続きはファンの皆様の夢の中で。
文=犬企画マンホール 写真=BBM