
72年の僕。とにかく無我夢中でしたね
兆しがあった後年の異名「隔年の大島」
みなさんにも聴いていただけたでしょうか。
5月18日、東京ドームでの
巨人-
ヤクルト戦のラジオ解説です。ブログでも少し書いていますが、本当に楽しかったです。
球場にも早めに行って、練習からじっくり見させてもらいました。ご無沙汰にしている、いろいろな人にも会いましたが、みな「すごく元気そうですね」と声をかけてくれます。手術から半年で体重も10キロ増。ベストにあと3キロまで戻りました。いまはちょっと丸顔ですが、もう少ししたら四角い“ベース顏”に戻るのかな。昔は、少し気にしてましたが、いまはなんだか楽しみです。
試合はヤクルトの勝利。巨人・
高橋由伸監督は、まだ若いし、就任2年目です。それでも巨人という球団では優勝を求められる。それもまた、プロの世界の厳しさです。僕の最初の監督、
水原茂さんも高橋監督と同じ慶大出身で、やはり長く巨人の監督をやられましたが、最後の1960年は、リーグ6連覇を逃し、2位にもかかわらずの辞任とか。勝敗だけじゃなく、フロントとモメていたのも理由だったそうですが、当時の巨人は大変な球団だったんですね。
水原さんと同じタイミングで巨人を去ったのが、水原さんの後、コーチからドラゴンズの監督に昇格した
与那嶺要さん、愛称ウォーリーです。現役時代は巨人のスーパースターで、3度首位打者に輝きながら、自由契約となって
中日に移籍したそうです。それもあってか、打倒巨人に、すごく燃えていました。
ウォーリー(親愛の情を込め、以後はこの呼び方でいかせていただきます)の監督1年目の72年は、僕がフルシーズン一軍に定着した年でもあります。まだ21歳ですし、相変わらずガムシャラにやっていただけですけどね。当時、自分のエラーで負けた後、人目もはばからず大泣きしたという記事があったそうです。まったく覚えていませんが、そんなことがあっても不思議じゃありません。そのくらい純粋でした。
ただ、そうは言いながらも、根拠のない自信は健在と言いますか、つっかえ棒が必要なほど、そっくり返っていた時代は続いています。たぶん、それもあってでしょうが、とにかく成績にムラがあった。スタメンで4三振、次の日、代打に回ると打つ、それでまたスタメンになると打てない。これをずっと繰り返していました。
少し話が飛びますが、僕は、76年に・・・
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