
筆者があこがれたという西鉄の豊田泰光。写真はプロ5年目の1957年[写真=BBM]
勝負師と魔術師
今週号は
西武の特集ということで、私も西武の思い出を書くことにしよう。と言っても、西武ライオンズが誕生したのは1979年(昭和54年)だから、思い出となると前身の西鉄ライオンズのことになる。
私のプロ入りは59年。当時はドラフト制度などなく、私は最終的に東映と
中日の2球団の選択となり、条件は中日のほうが圧倒的に良かったものの、男として東京で勝負したいという気持ちが抑え切れず、東京に本拠地がある東映への入団を決めた。それまでは故郷の
広島、そして浪商高時代の大阪でしか過ごしたことがなかった。
東映は現在の
日本ハムだが、東映を選んだことは同時にパ・リーグで戦うことを選んだということだ。もちろんそんな深いことまでは考えておらず、18歳の私は花のお江戸、東京で戦いたいとそれだけだったのだが、当時のパは西鉄ライオンズの全盛期だった。名将として知られる
三原脩監督の下、二番から豊田泰光、
中西太、
大下弘と続く打線は“流線型打線”と呼ばれるほど強力で“神様・仏様・稲尾様”と言われた
稲尾和久という大投手がいた。56~58年は日本シリーズで
水原茂監督の
巨人を下して3連覇。水原監督が誕生し、巨人を追われて西鉄の指揮官となった三原監督にすれば痛快なリベンジだっただろう。
それにしても「水原-三原」のライバル関係は、今思い出しても実に因縁めいていた。書き出すとそれだけでページが尽きてしまうからまたの機会に譲るが、お互いがお互いを意識し、勝負師の水原、魔術師の三原と生涯のライバルだったと思う。現在の12球団の監督はみな敵対心を見せず、監督同士が火花を散らすようなバチバチの関係というのも見られない。それはそれで良いのかもしれないが、大将がそれではやや物足りない部分も感じる。
私がプロに入る前からあこがれていたのは西鉄の「二番・遊撃」で背番号7を着けた豊田さんだった。タイトルは新人王(53年)に首位打者が一度(56年)、3割も数えるほどしか打っていないが・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン