ともにパ・リーグを代表する選手として、“ケンカ相手”として、しのぎを削ってきた。通算3085安打の希代のバッターが、大打者にして抜群のリードを備えた名捕手との思い出を振り返る。 
左から大杉、野村、張本。ともにパ・リーグをけん引したライバルにして戦友だった
2月11日の10時ころに電話を受け、野村克也さんが亡くなったことを知った。1月21日の金田正一さん(元国鉄ほか)のお別れの会で言葉を交わしたのが最後になってしまった。偉大な先輩である以上に、セ・リーグに比べて注目度が低かったパ・リーグで必死に戦ったライバルでもある。思い出を振り返ればきりがないほどだ。
私のいた東映は「万年5位」と揶揄(やゆ)されるチームだったが、61年から水原茂監督が巨人からやってきて生まれ変わった。野村さんの南海を指揮していたのは鶴岡(鶴岡一人)親分。私が四大監督に挙げる2人が采配を振っていた東映と南海の戦いは充実したゲームが多かったが、その中で私は打線の主軸として、野村さんは「四番・キャッチャー」として、激しくぶつかり合った。
私が入団した1959年、野村さんはすでに一度ホームラン王に輝いていたが、カーブを打てない粗いバッターで、カーブ攻めにあって苦しんでいる時期だった。そこから自分だけのバッティングをつくり上げ、61年から8年連続でホームラン王に輝いている。ホームランでは野村さんには敵わない。しかし、打率では負けない。それだけに65年に左手首を負傷して打率3割を切り、そのスキに三冠王を獲られてしまったことについては、野村さんに「私がケガをしていなければ、あなたに三冠王は獲らせていませんでしたよ」と生意気なことを言っては「うるせえ!」と怒られたものだ。
私が一番すごいと感じていたのは・・・