1968年7月12日の東京戦(東京スタジアム)で、南海・野村克也捕手は通算400号を達成。その際、苦しかった若手時代などの思い出をつづった手記を『週刊ベースボール』に掲載していただいた。 (文章は抜粋。表記は一部修正しています。カッコ内は編集部が加えたもの) 
65年はスペンサー[左]と競って三冠王獲得
400号で若い日を思い出す
それほど意識していないつもりだった。400本はいつか出る、そう言い聞かせてはいたが、7月12日からの対東京4連戦で目指す記録が達成できないとしたら、当分ホームランは出ないのではないか、そんな不安な気持ちがうっすらとぼくの胸に浮かんでいた。
その日、東京は坂井(坂井勝二)投手だった。3回表。初球をたたいた。よく伸びているようだったが、打った瞬間“足りないかな”という感じだった。幸い打球はバックスクリーンに達した。出たぞ。ベースを一周するときはただ感無量――。
チラッとぼくの脳裏をかすめたのは、若いときの苦労の思い出だった。なぜこんなときに、昔の思い出がよみがえったのか分からない。ナインの祝福を受けながら、ベンチに帰ってフッと息をついたぼくは、「よくここまで打ったもんだ。よくやれたな」そう思いながらしみじみ満足感に浸ったものである。
ただ心残りと言えば、ぼくの記念すべきホームランで一度は勝ち越したのだが、以後、東京の猛打にあって惨敗を喫したこと。もうひとつ、やはりぼくを育ててくれた地元・大阪球場で、400本をマークしたかったことだ。
宿舎(東京原宿・神宮橋旅館)に帰ってくると祝電がもう待っていた。自分のことのように喜んでくれた電話もずいぶんいただいた。常に至らないぼくに声援し、励ましてくれた温かいこれらの方々にもう一度、この誌上を借りてお礼を申し上げたい。
ありがとう!
気をもんだ初のホームラン王
400本ホームランを打ったいま、思い出のホームランとなると、やはり第1号の中川(中川隆)投手から記録したときだろうか(1956年4月28日、後楽園での毎日戦)。ベースを一周する気持ちはどんな打者でも共通したものだろうと思う。
400本のうちには入らないが、(昭和)34年の日本選手権のホームランも忘れられない。第3戦、1点をリードされた2回、杉山(杉山光平)さんを一塁において巨人の藤田(藤田元司)投手からセンターに2ランホーマーした会心の一撃は直接の決勝打ではなかったが、4連勝に貢献して初の日本一になった喜びも十分に味わえた思い出のホームランだった。
ホームランにまつわる思い出は多い。3打席連続も何度かあったが、当時新記録となる4打席目がどうしても出ない。狙い過ぎたり、歩かされたり。特に岩本(岩本義行)さんが東映の監督時代、せっかくのチャンスにあっさり敬遠されたのは、当時若気の至りで腹が立つ思いであった。
いちばんうれしかったのは・・・