野村克也が選手兼任監督になって以降、新たな野球のスタイル、新たな南海ホークスを築き上げてきた。しかし、それがまさか、こんな形で終わりを迎えるとは……。この騒動によってチームは、あらためて『野村克也』という存在の大きさを知ることとなった。 写真=BBM 週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より 
10月5日に会見を開き、自らの口でこの騒動についてのアレコレを語った野村前監督。あらゆる面がこじれにこじれていた
1カ月で真逆の事態に
いつの時代でもスキャンダルというのは恐ろしいものだ。それが一選手というだけでも大変なのに、主力選手、ましてや監督となれば、球団を巻き込んでの大騒動となる。南海にとって、1977年は波乱の1年となってしまった。
まだシーズン中の9月26日、新聞に『南海・野村克也監督解任決定的』の文字が躍った。これが報道したスポーツ紙の記者たちでさえ考えてもみなかったことだったというのだから、ファンが驚くのも無理はない。一般的に解任理由というのは成績不振の責任を取る場合が多いが、その点ではこの年はもちろん、前年も上位争いを繰り広げての2位。確かに優勝には届かなかったものの、特別問題視する必要はない。事実、野村がプロ野球史上初となる10000打数を達成した8月26日には、川勝傳オーナーから「来季も野村体制」発言がなされていた。それが1カ月の間に状況が180度変わってしまったというわけだ。
解任の判断については、新聞報道の数日前、9月13日の会議で話し合いが行われていた。この会議には川勝オーナー、球団重役で南海後援会会長だった飯田新一高島屋百貨店社長、野村の人生の師と言われる葉上大阿闍梨東南寺住職、森本昌孝球団代表が出席。そして、テーマがズバリ「野村監督に公私混同の言動が多過ぎる」ということだった。
ここでいう「公私混同」とは“女性問題”だった。当時・・・