現代の若い人たちは、近・現代詩を読むことがあるのだろうか。これは習慣の問題かもしれないが、筆者などは、若いころはよく読んだものだ。しかし、結局は、1に萩原朔太郎、2に中原中也、あとは無用、で終わってしまった。尊敬する故・飯島耕一さんも、その詩論、詩人論は日本一だが、詩には一向に感心しなかった。
その朔太郎に未定稿だが「祈祷」という、ちょっと変わった作品がある。
ぴんと光った青竹、
そこいらいちめん、
ずばずば生えた竹藪の中へ、
おれはすっぱだかでとびこんで、
死にものぐるひの祈祷をした、
まっかの地面の上で、
ぎりぎり狂気の歯がみをした。
みれば笹の葉の隙間から、
まっぴるまの天が光ってゐる、
おれは指をとんがらして、
まっかうからすっぱりと。
菅野昭正さんは『詩学創造』の中で「『祈祷』は擬音語や接頭辞を使うことで、せっぱつまった感情の昂揚をなまなましく表わそうとする作意が見えすぎて、習作としても、とくに言葉を費すほどの出来ばえを示しているとは言いがたい」と書いている。まあ、そういうことだろう。しかし、詩を目で読むことに慣れた現代人、というところから離れて、故・岸田今日子、江守徹といった人にこの詩を読んでもらったらどうだろうか?
これは声を出して読むべき詩のような気がするのだ。一流の朗読者の口から流れ出ると、まったく違った印象を与えるのではないだろうか。良い詩というのは、黙読しても音読しても鑑賞に耐える詩なのではないだろうか。
突然飛躍するが、プロ野球選手も、この両方でファンを喜ばせる選手が本当のスターではないだろうか・・・
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