週刊ベースボールONLINE

2024訃報コラム

伝説の早慶6連戦で活躍した徳武定祐さんが死去 不躾ながら投げかけた質問

 

早大時代の徳武さん。4年時には主将兼四番として活躍した


 木枯らしが街路樹の枯葉を散らしていた。

 プロ野球の国鉄スワローズなどで活躍した徳武定祐さんが、11月14日、悪性リンパ腫のために都内の病院で死去した。86歳だった。

 遡ること5年。2019年12月11日に急性骨髄性白血病によって、81歳で死去した徳武さんの盟友・醍醐猛夫さんの葬儀が都内で行われた。その数日後に私は徳武さんと東京・目白の喫茶店で、夜遅くまで語り明かしている。

 喫茶店とは名ばかりで、徳武さんが足を運べば、店内の雰囲気は一変する。店主が運んできた焼酎のボトルをテーブルの上に置くのだ。

 店の名前は「HAGI」。店主の萩原康弘さんは、巨人V9時代に外野手兼代打の切り札として活躍した左の巧打者である。

 私は酔いが回った勢いで、大先輩に不躾ながら「なぜ、あのときに醍醐さんは宮井(宮井勝成)さんに『僕たちには今年しかないんです』と言えなかったんでしょうか?」と言葉を発してしまった。それは生前の醍醐さんに問い質してみたいと思い描いていた一言だった。だが、残念ながら私はその機会に恵まれなかった。

 徳武さんは、醍醐さんと早実野球部の同級生である。3年生のときに醍醐さんが主将を務めていて、徳武さんは副将だった。

「あのときに」とは、1956年夏の甲子園大会のことである。1回戦で対戦した新宮高を2対1で破った早実は、続く2回戦で優勝候補の岐阜商と対戦することになった。

 その前夜、醍醐さんは監督の宮井さんの下へ呼び出された。

「明日の先発は、1年生の王(王貞治)でいく」。宮井監督がそう告げると、醍醐主将は「なぜ、3年生の大井(大井孝夫)ではないのですか?」と言葉を返した。大井は1回戦の新宮高との試合で、2対1の完投勝利を収めている当時早実のエースだった。

 宮井監督から返ってきた言葉は「俺たちは今年だけではなく、1年、2年先のことまで考えているんだ。だから明日は王でいく」だった。監督が下した最終決定に主将の醍醐が口を挟む余地はない。

 悪い予感は的中してしまう。王は制球を乱して、岐阜商打線に打ち込まれて、早実は1対8で2回戦を落とした。

 私の問いかけに徳武さんは、強面な表情から優しい笑顔を浮べてこう語った。

「もちろん、負けたときは悔しかったさ。いや、そんなことよりも、その翌年エース兼四番に成長した王が、春の甲子園大会を制したじゃないか。初めて紫紺の優勝旗が箱根の関を越えたんだよ。そのことで華の都・大東京が熱狂した。俺たちはその礎となった。もう、それだけで十分満足したよ」

 早大へ進学すると、4年のときに主将兼四番の重責を担い、いまも伝説として球史に輝く早慶6連戦を制した。

 現役引退後は、中日ロッテでコーチ、二軍監督としてチームに貢献。晩年は母校・早大で打撃コーチを務めた。特に昨年ドラフト1位で西武のユニフォームを着た外野手の蛭間拓哉は愛弟子だった。

 ある歳の瀬、木枯らし吹きすさぶころに「忘年会をやりましょう」と言って日にちを指定すると、「その日はひろみのディナーショーへいくことになっているんだよ」と、照れくさそうに笑いながら断られた。ひろみとは次女が嫁いだ歌手の郷ひろみさんのことである。最近では孫にあたる双子の兄弟に野球を教えることが生きがいだった。

 死去する前々日の11月12日に優勝決定戦で早大が明大を下して、2季連続48度目のリーグ優勝を達成した瞬間は、病院のベッドで、妻の香さんが手にしたスマホの画面を見ながら、頷いていたという。

 球史に伝説として輝く男が人生の幕を閉じた。

PROFILE
とくたけ・さだゆき●1938年6月9日生まれ。東京都出身。早実では醍醐猛夫と同期で、王貞治の2年先輩。早大では4年時に主将として活躍し、伝説の「早慶6連戦」では四番打者。61年に国鉄入団。開幕戦から試合出場を続け、ルーキーイヤーのフルイニング出場を含め6年連続全試合出場。68年に中日移籍、70年限りで現役引退。中日、ロッテでコーチ、二軍監督を歴任。NPB通算1063試合、903安打91本塁打396打点、打率.259。

文=池田哲雄 写真=BBM
HOT TOPICS

HOT TOPICS

球界の気になる動きを週刊ベースボール編集部がピックアップ。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング