文=石田雄太(ベースボールライター) 恐るべき余裕と自身

制球力に長けた斎藤雅樹[桑田の右]、球威に勝った槙原寛己[同左]とともに、三本柱が80年代後半から90年代の巨人を支えた
あれは2002年のことだ。
9月11日、ジャイアンツの
桑田真澄がナゴヤドームのマウンドに立っていた。
原辰徳監督の1年目、桑田自身も4年ぶりの2ケタ勝利(12勝)を挙げ、15年ぶりに防御率1位のタイトルを獲得したシーズンである。2位のスワローズを大きく引き離して、リーグ制覇へ独走態勢に入っていたジャイアンツ。桑田にとっても4年ぶりの完封が目の前に迫っている試合だった。
その登板の1週間前、9月4日のスワローズ戦でも、桑田は8回までゼロを並べて9回のマウンドに立っていた。しかしそのときは9回、
土橋勝征にレフトスタンドへ運ばれ、完封の夢はついえてしまった。ところが桑田はすぐ次のドラゴンズ戦でも8回までゼロを並べて、9回のマウンドに立っていたというわけだ。当時、34歳だった桑田は、20代のころとはひと味違う投球術を身につけて、相手バッターを手玉に取っていた。
2002年9月11日、ナゴヤドームのドラゴンズ戦。9回の先頭バッター、
福留孝介をインサイドのストレートで詰まらせてレフトフライに打ち取り、
立浪和義を得意のカーブでショートゴロに抑えてツーアウト、あと一人。桑田はいつものように後ろを振り返り、指を二本立てて仲間たちに声をかけた。
「ツーアウトーっ」
そして、ロージンバッグに手をかけようとした瞬間、桑田は、あ、忘れてた、とでも言いたげな仕草で慌ててもう一度、後ろを振り返り、ライトを守る
後藤孝志を指差した。
「ライトーっ」
すかさず右手を上げて応えた後藤は、苦笑いを浮かべてこう言った。
「僕のところに打たせようと思っていたんでしょ。よくありますよ。桑田さんは相手のバッターと場面、どこに打たせるかまでイメージして、投げる球を決めてますから……ああやって、楽しんでるんですよ(笑)」
バッターは五番の
高橋光信だった。このとき、桑田は本当に高橋をライトフライに打ち取って試合を終わらせることをイメージしていたのだろうか。桑田はこう言っていた。
「あれは、バッターの高橋君が真っすぐ一本に絞ってきているのが分かりましたから、じゃあ・・・
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