「鯉の穴」とは、要はタイガーマスクにおける「虎の穴」だ。若い世代には分からないかもしれないが、若き選手を鍛え、第一線に送り出すための育成機関である。外国人選手であれ、活躍できるかどうか分からぬ未知の選手を高いカネで獲得するより、自前で育てる。これもまた、広島らしい“助っ人戦略”と言える。 28年前に開校
すい星のように現れ、中継ぎ陣を支えるヘロニモ・フランスアをはじめ、2017年に6年契約をした
サビエル・バティスタ、
アレハンドロ・メヒア、プラス、さらに広島の通訳のクレートさんの出身がドミニカ共和国にある「カープアカデミー」だ。
1990年11月29日に開校。当時、米球界も中南米に選手発掘のための育成学校(アカデミー)を次々設立。広島も多くのメジャー・リーガーを出し、かつ治安もよかったドミニカ共和国に目をつけ、広大な土地を買収。球場、宿舎などを備えたアカデミーを開校した。
翌91年1月15日には選手3人が二軍キャンプに合流。このうちバウチスター投手は92年途中に支配下登録となるも、一軍登板はなかった。
92年2月、今度は
ロビンソン・チェコ投手と正式契約し、支配下登録選手に。背番号は106、年俸は推定400万円だった。その後、ペレス内野手も支配下登録されたが、5月に2人は任意引退となり、代わりにサンギルベルト投手、
フェリックス・ペルドモ内野手が登録。チェコは同年のオープン戦で
巨人戦の登板が決まっていたのだが、股関節の痛みで回避。ウエスタンで結果を出せなかった。
当時のアカデミー選手の出入り、つまりは契約、引退はかなり頻繁で、今回は正確に説明していくスペースがない。かいつまんでいく。
チェコは翌93年3月に再び支配下契約。しかし、右ヒジの故障もあって一軍登板はなく、94年は台湾・時報にペレス内野手、ペーニャ外野手とともに派遣された。
逆の交流も始まり、93年のシーズン後にはテスト入団が決まった
加藤哲郎、ドラフト2位で契約したばかりの上田好剛がドミニカのウインター・リーグに参加。教育リーグなど、昔からカープは選手の米球界派遣に熱心な球団ではあった。
94年4月9日には
カルロス・リベラ投手がアカデミー出身として初の一軍選手登録。20日の
阪神戦(甲子園)で一軍初登板を初先発で飾るも3回途中KO、8月14日、
ヤクルト戦(広島市民)では5回4失点で敗戦投手に。日本人投手なら「次」もあるが、リベラの「次」はなかった……。
チェコの躍進と反乱
翌95年はカープアカデミーにとって大きな飛躍の年となった。2月にチェコ、
ラモン・ラミーレス投手と選手契約。チェコは3月に3度目の支配下登録となり、4月12日の阪神戦(甲子園)で一軍初登板を初先発、しかも無四球完封勝利で飾った。以後は先発ローテに定着。腰を落とし、ギターを弾くような独特のガッツポーズでも話題となった。

95年に15勝を挙げたチェコ
順調に勝ち星を挙げてきたチェコだが、8月になって「新たなボーナス契約を結ばなければ先発したくない」。球団側から「先発しないなら二軍」と言われ撤回したが、11月7日、同年、近鉄を退団し、ドジャースへ移籍した
野茂英雄の代理人でもあったダン野村氏がチェコと代理人契約。広島に対し、チェコの契約解除を通告し、メジャー球団との交渉を開始した。「チェコの契約書のサインが偽造されたもの」と、契約が不完全だから解除しても当然、という主張だった。
広島は全面否定。12月には、雑誌に掲載されたダン野村氏の主張記事に対して、業務妨害および名誉棄損で告訴する泥沼となった。その後、代理人が代わり、1月には残留が発表されたが、広島でのプレーは今季限りという裏約束があったらしい。結局、96年限りで退団。レッドソックスと契約した。チェコはカープアカデミーの最初の成功例であり、最初のつまずきだった。
名球会資格保持者?
ただ、チェコばかりは責められないだろう。ドミニカの選手たちは、日本球界での成功を夢見ていたわけではない。経済的に恵まれぬ中、野球で成功し、自分のため、家族のためにビッグマネーを獲得することを目標としている。広島と米球界の年俸差は大きく、かつ当時の日本の選手契約は“穴”がたくさんあった。
96年は、二軍の外国人選手枠が撤廃されたことを受け、新たにアカデミーの4選手と契約。
ペルドモ内野手、
ティモニエル・ペレス外野手、
デラクルーズ投手、
アルフォンソ・ソリアーノ内野手である。ペレスは96年の開幕前に支配下登録され、4月5日、開幕の
中日戦(広島市民)に代打でサヨナラヒット。翌97、98年は一軍に定着。ただ米球界志向が強く、98年オフにポスティングでメジャー移籍を希望した。しかし獲得球団が現れず、翌99年終了後、自由契約でメッツに入団。メジャー時代、日本人記者を見かけると「アッチニイケヨ!」とからかうこともあったとう。広島通算227試合、メジャー通算603試合出場。彼も“成功組”だった。

96年二軍の外国人枠の撤廃でドミニカ選手が大挙来日。写真はチェコポーズ
背番号74のソリアーノは、のちメジャーのレジェンドとなるカープアカデミーの出世頭だが、日本では翌97年に9試合だけ一軍出場し、2安打のみに終わっている。98年に契約更改でもめ、年俸調停の末、退団。
ヤンキースほかで大活躍し、メジャー通算2095安打、412本塁打、289盗塁。日本の名球会入りの資格も持っている。

手前がペルドモ、奥がソリアーノ
98年のオフには前述のペレスに加え、
アレファンドロ・ケサダ外野手も日本で初めてポスティングシステムを使い、こちらはレッズからオファーがあり退団。ケサダは同年の「フレッシュオールスター」で外国人選手では初めてのMVPとなった。6月に一軍初昇格すると、初出場の6月20日、函館の横浜戦で、いきなり2打数2安打。その後は右の代打の切り札となり、最終的には34試合の出場で打率.311、3本塁打、9打点。メジャーでは出場がないまま引退した。
その後、一時は施設を縮小させ、来日する選手も小粒になったが、2010年代になってふたたび組織を整備拡張。痛い経験を踏まえ、「カープアカデミー」は新たなる時代をスタートさせている。