ヤクルト・村上宗隆が着々と積み上げるホームラン。すでに55本となり、NPB歴代2位タイとなった。村上の前に50本塁打以上をマークした先人たちを記録とともに振り返っていこう。 ※記録は9月25日現在 
ホームランブームを巻き起こしたセネタース時代の大下
打撃の神様・
川上哲治(
巨人)の打球が「弾丸ライナー」と呼ばれたが、戦前はフェンス超えのホームランより、火の出るような強烈な打球が評価される傾向にあった。
本塁打数も個人タイトルがスタートした1936年秋のホームラン王はタイガースの
藤村富美男、阪急の
山下実、金鯱の
古谷倉之助で2本だ。このとき試合数は各球団でバラバラで、最多がタイガースの31試合と現在の143試合制の5分の1程度ではあるが、当時の7球団合計でも18本とかなり少ない(2021年のセ6球団合計は760本)。
戦前、44年までの本塁打王の最多は38年秋、初代三冠王でもある
中島治康(巨人)、39年、
鶴岡一人(南海)の10本。38年秋は40試合制、39年は96試合制だから状況が違い、中島は143試合制で考えると35本超ペースと現在の球界と大きな差はないようにも映るが、実は35試合制の同年春の本塁打は1本だった。
ホームランの少なさは、冒頭のように選手個々の意識と打撃技術に加え、ボールの材質から球自体が飛ばなかったことも大きい。
すべてが変わったのは、
大下弘(セネタース)の登場だ。終戦後の荒廃からプロ野球が再開した45年秋の東西対抗でプロデビュー。公式戦再開の46年にはいきなりホームラン王。本塁打数は105試合制で20本だったが、2位の同じくセネタース・
飯島滋弥の12本とは大差があり、8球団全体で211本だったことからも、いかに飛び抜けた数字であったかが分かる。
加えるなら大下のスター性だ。甘いマスクと豪快なフルスイングからの大きな弧を描くアーチで人々を魅了し、“大下ブーム”、“ホームランブーム”を巻き起こした。翌47年には首位打者に加え、17本で2年連続ホームラン王となった大下は、青に着色したバットから「青バットの大下」とも言われ、「赤バットの川上」とともに戦後復興の象徴的存在となっていった。
他球団の選手も色めき立つ。球界の盟主である巨人は川上、
青田昇、さらに
三原脩監督が大下のスイングを徹底的に分析。ボールをいかに高く遠くに飛ばすかを研究した。青田はのち「あのとき日本の打撃技術の基本をつくったと言っていい」と胸を張る。
48年には大下をしのぎ、川上、青田が25本で本塁打王となった。さらにホームランブームに拍車をかけたのがホームランがファンを喜ばすことから導入されたラビットボールと呼ばれた飛ぶボールだ。これにより、49年に
阪神・藤村が46本、50年には松竹の
小鶴誠が最初の50本超え、51本塁打を達成した。
その後もボールや試合数が本塁打数に大きな影響を与えてきたが、2022年の村上宗隆(ヤクルト)を含め、50本塁打以上を達成したのは長いプロ野球の歴史の中でも10人(15回)しかいない。現在、2位の
岡本和真(巨人)の30本に大差をつけ、歴代2位の55本塁打をマークしている村上の本塁打量産は、日本球界の新たなる“ホームランブーム”を予感させる。

※試合数は打者個人ではなく所属チームのもの