広島の初優勝時の四番を務めたのが山本浩二だ。中心打者として赤ヘル打線をけん引。広島が生んだスーパースターが振り返る初めての頂点への道とは――。 写真=BBM
※『ベースボールマガジン』2022年2月号、24年5月号から再構成 
初優勝を果たし歓喜の表情。ヒーローインタビューでは泣きじゃくりながら声にならないほどの声で喜びを語った
「浩司」から「浩二」に
広島の初優勝とともに才能が完全開花した。1975年、自身初めての打率3割、30本塁打をマーク。6月下旬からは四番に座り、チームを頂点に導いた。前年まで3年連続最下位だったチームと6年目まで殻を破り切れなかった主砲。それが様変わりしたが、その要因はどこにあったのだろうか。 75年から登録名を「浩司」から「浩二」に変えました。前の年にたまたま友達と食事をしているときに「有名な姓名判断の占い師がいるけど、ちょっと行ってみないか」と誘われたんです。そこで画数は「司」より「二」のほうがいい、と。「浩二」のほうが勝負事に向いていると言われたら、もちろんそっちにしたいですから。それで戸籍は変えずに登録名を「浩二」に変更したんです。
それにしても75年、急に強くなったわけではないですよ。結局、僕がよく言うのは68年から72年まで監督を務めた根本(
根本陸夫)さんのときに僕やキヌ(
衣笠祥雄)、水谷(
水谷実雄)、三村(
三村敏之)、水沼(
水沼四郎)と同じ年代の選手がいて、この連中を鍛えるところから始まっていた。のちのち根本さんから聞いたのは「こいつらを鍛えて優勝を争えるチームに」という構想があった、と。だからハンパじゃなく鍛えられた。それこそ遠征先でもゲームが終わって宿舎に帰ってくると・・・
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