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2026年の再出発 進め、進め マリーンズのススメ!

<保存版>ロッテ球団監督全史 オリオンズからマリーンズへ――歴代の指揮官を振り返る

 

2026年から就任するサブロー監督は、1950年の毎日オリオンズ初代監督・湯浅禎夫から数えて27代目(代行監督を除く。2回ずつ就任した金田正一とバレンタインはその都度カウント)となる。ここでおさらいしておこう。ロッテ球団を率いた指揮官の歴史を――。
文=キタトシオ(野球史研究家) 写真=BBM

湯浅禎夫


永田オーナーは取っ替え引っ替え


 前身球団を含めた千葉ロッテマリーンズ監督の歴史は、1950年に誕生した毎日オリオンズの初代監督に、大阪毎日新聞の運動部長だった湯浅禎夫が就任したことで始まる(正式な肩書は総監督)。明大時代にはノーヒットノーランを2度達成したほどの名投手だった湯浅率いる毎日は、リーグを独走で制覇すると、第1回日本シリーズで松竹を倒し、初代日本一に輝いた。しかし52年7月、日没コールドを狙った毎日側が遅延行為をしたことで観客の暴動が起こり(平和台事件)、その責任を取る形で湯浅はシーズン途中に指揮権をはく奪された(後任は別当薫)。

 53年は若林忠志が指揮を執った。往年の阪神のエースで通算237勝を誇る大投手だったが、チームは初のBクラスとなる5位に転落。1年で監督の座を追われた。

 続いて監督になったのは別当だった。別当は毎日・大毎(58年から)時代を含めて延べ5球団で監督を務め、通算1237勝を挙げたが、一度もリーグ優勝を果たせなかった(1000勝以上の監督では唯一)。ただし、自身が大打者だったことからバッターの育成に手腕を発揮し、毎日では榎本喜八、近鉄では土井正博、大洋では田代富雄と球史に残る強打者を見いだした名伯楽であった。

 60年、別当に代わりヘッドコーチの西本幸雄が監督に就任する。選手としては地味だった西本の登用は、派手好みの永田雅一オーナー(大映社長)にとって不満の残る人事だった。だが、西本の能力は確かだった。強力な「ミサイル打線」を擁した大毎は、10年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし日本シリーズでは大洋相手に1勝もできずに敗退。その際の采配を巡って永田と激しく口論した西本は、優勝監督でありながら解任された。その後、西本が阪急と近鉄で7度の優勝を成し遂げたことを思えば、オリオンズにとっては痛恨の決別であった。

 61年からは宇野光雄が監督になる。前年まで5年間国鉄の監督を務めたが、順位はいずれもBクラス。就任のあいさつでは選手たちに「去年優勝したんだから、同じようにやってくれればいい」と言ったという。結果は優勝どころか2年連続の4位だった。二軍監督から昇格し、後を継いだのが本堂保次である。仏のやっさんと呼ばれた好人物だったが、チームは63年から3年連続Bクラスに終わった。

 65年オフ、名将・鶴岡一人の獲得に失敗したことで、二軍の指揮を執っていた田丸仁が急遽一軍監督に抜擢された。プロ野球選手の経験はなかったが、法政二高監督時代は甲子園を2度制覇し、法大監督も歴任したアマ球界の大物だった。ただしプロは勝手が違ったのか成績を残せず、66年限りで戸倉勝城(元阪急監督)にその座を譲った。

 このころのオリオンズは、監督が短期間で代わった。短気だった永田は、結果を出さないとあっさりクビを切ったからである。戸倉にいたっては1年もたずに解任された。

 そんな中で67年途中から監督となった濃人渉は、比較的長期の政権を築いた。濃人は永田の度重なる現場介入に悩まされながら、投打の若手を育てて徐々に戦力を整えると、就任4年目の70年、ロッテ(69年から)にとって10年ぶりのリーグ優勝を本拠地の東京スタジアムで決めた。ただ、監督の濃人より先に胴上げされたのが永田だったというエピソードには「中間管理職」の悲哀を感じさせなくもない(日本シリーズでは巨人に敗退)。

400勝投手・カネやんの時代


 大映の経営難により、この年限りで永田はオーナーの座を降りた。71年からはそれまで資金を援助する立場だったロッテが親会社になる。引き続き監督を務めた濃人だったが、7月に起きた放棄試合の責任を取って二軍監督に降格した。

 代わって二軍監督から昇格したのが・・・

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