混迷する東北楽天の監督人事にようやく終止符が打たれ、8日に梨田昌孝氏が監督就任会見を行った。北海道日本ハム時代は時に大胆に、時に繊細にチームを指揮し、絶妙なかじ取りで常勝球団を作り上げた。大阪近鉄の監督でもあった同氏は2004年の球界再編で生まれた楽天をどう立て直していくのか。近鉄、日本ハム監督時代のエピソードを交えながら、5年ぶりに現場復帰する梨田氏の素顔に迫ってみたい。 日本ハム監督時代の梨田氏。就任2年目の09年にはチームを2年ぶりのリーグVへと導いた
胸に秘める「日本一」への思い
堂々たる風格ある立ち居振る舞いに、端正な顔。還暦を過ぎても評論家としてスーツ姿で球場を視察に訪れる姿は、一見にして「梨田昌孝」と分かる。関係者が駆け寄ると漏れなく出てくる人懐っこい笑顔。しかし、その人間味をたたえる普段の表情と、グラウンドでの勝負師としてのコントラストは梨田氏が歩んできた監督人生を物語っている。
来季から楽天の第6代監督に就任することが内定した。チームは2013年の日本一から一転、2年連続最下位に低迷。今シーズンチームを率いた
大久保博元監督が辞意を表明してから混迷を極めていた次期監督選び。近鉄、日本ハムを率いて両球団でリーグ優勝、日本シリーズを経験してきた人物に一本化され、楽天側は複数年契約を打診し、梨田氏もこれを受諾した。
近鉄で強肩強打の捕手として、リーグを代表する選手として君臨。当時盗塁で世界記録を打ち出していた韋駄天選手、阪急の
福本豊を阻止するためにスローイングはもちろんのこと、いかに素早く送球動作まで持っていけるかと捕球をするポイントや角度までにこだわり、研究に研究を重ねた。もう一つの魅力だった打撃も追求した。柔軟性かつ自らのミートポイントを投手が投げ込むさまざまな球種に対応するために編み出した「コンニャク打法」と称される変則打法は有名だ。そして、甘いマスクで人気もあった。1979年から3年連続でベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得するなど、光り輝いた全盛期だったが、何かが足りなかった。それは「日本一」という称号をつかめなかったことに尽きる。
選手、監督として、身も心もすべてを捧げた近鉄が、2004年シーズンを限りに消滅した。プロ野球人として歩みを進めた近鉄こそ、『母なる球団』だった。監督として初めてチームを率いて乗り込んだ2001年の日本シリーズ。セ・リーグを制した
若松勉監督率いる
ヤクルトと対戦。完敗だった。「試合にならなかったということではなく、自分自身が負けていた」と自ら話したことがあった。一度も日本一を経験できずに近鉄は“消滅”した。梨田もまた、戻る家をなくし、最後の近鉄監督としてユニフォームを脱いだが、野球への情熱だけは失わなかった。
2007年11月25日。日本ハムのファンフェスティバル。球団初のリーグ連覇を果たし、母国・アメリカに戻ることになったトレイ・
ヒルマン監督からバトンを受けた。初めて目の当たりにする熱烈な日本ハムファンを前にして梨田は言った。
「連覇したチームを率いることは、ものすごいプレッシャーの中で戦うということでもありますが、いまここに立って、必ずやっていけるということを確信しました」
外から野球をつぶさに見る中で新たな高ぶりを感じていた。そしてオファーを受け、かつての好敵手を率いることを決めた。ファンへの誓いの言葉を発した瞬間、色紙にしたためた「大空と大地」の中で戦うことを決意したのだった。
日本一には届かなかった近鉄監督時代。それだけに梨田氏の胸の奥底には常に頂点への秘めたる思いがある
磨いてきた観察眼を駆使してチームの立て直しを図る
オーソドックスな采配。奇をてらった策は見当たらない。しかし、指揮を執る中で必ず生かされる信念がある。それは「己の観察眼」だった。
「ずっとキャッチャーをやってきたでしょ。だから・・・
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