FA全盛の時代、そのバットで信頼を勝ち取り、ポジションを手にした安打製造機だ。巨人には13年在籍し、3割を7度記録。2002年の191安打はいまなお球団最多安打記録でもある。“銀河系軍団”の中で輝きを放った左のスラッガーが、00年前後の強い巨人を振り返る。 取材・構成=坂本匠、写真=BBM ![](https://cdn.findfriends.jp/img.sp.baseball/show_img.php?id=24273&contents_id=p_page_002)
2002年、日本一に輝くチームで年間を通して一番に座った清水隆行。ミサイルのような弾丸ライナーを広角に飛ばし、191安打で最多安打のタイトルを手にした
生きるための一、二番
入団は国民的行事の「10.8」から2年後の1996年。自身の手応えとは裏腹に、多士済々のメンバーの中で1年目から107試合の出番を得る。鋭いライナーを連発する左打者は、以降、チームに欠かせない存在となっていった。 私がジャイアンツに入団したのは1996年ですが、
長嶋茂雄監督を筆頭に、テレビで見ていた、錚々(そうそう)たるメンバーがいましたから、すべてにおいて圧倒された、というのが最初の印象でした。また、春のキャンプで初めてそのメンバーと一緒に練習をさせてもらうのですが、練習メニュー自体は驚くようなものではないものの、これを消化していく選手たちの動きの質の高さ、精度の高さ、レベルの高さはちょっと衝撃。とても簡単にプレーしているようでミスがないですし、フリー打撃などでもほとんど良い形でとらえた打球が飛んでいくわけです。今思えば当たり前なのかもしれませんが、大学出たての僕には驚きしかなかった。それに、人気の高い球団ですから、球場にはたくさんのファンの方が来てくださいますし、マスコミの皆さんも新聞、テレビ、雑誌とものすごい数。大学の、ましてや東都の環境とは違うわけで……こんな中でやっていけるのか? と。そんなことを感じていたように記憶しています。
同じ外野手では吉村(
吉村禎章)さん、松井(
松井秀喜)にマックが96年の開幕スタメンの3人。そのほかにも広沢(広沢克)さんや、内野手登録でも外野を守る方もいて、正直なところ、ここに割って入って試合に出ている自分は、リアルには想像ができなかったです。スタメンの3人は途中で代わるようなプレーヤーでもなかったですからね。だから、1年目・・・
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