ボロだけど味わいがあって大好きだった球場、父親に初めて連れて行ってもらった球場、仕事帰りによく立ち寄った球場、初めてデートした球場──。その幾多の景色は私たちの記憶の中に息づいている。いまはもうなくなってしまった追憶と哀愁のロストボールパーク。野球ファンに愛された11球場の情景を辿る。 各球場の年数は開場年と閉場年。紹介した球場はフランチャイズ終了球場。一部現存球場あり かつて東京下町にあった「光の球場」。1962年の開場式で、大毎(現
ロッテ)・永田雅一オーナーが「後楽園もびっくりだろ」と胸を張った1600ルクスの高照度で、ナイターになると、庶民的な民家が立ち並ぶ周囲から、宇宙船のように浮かび上がって見えたという。
サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークをモデルに建造された大毎の本拠地。オーナーで、映画会社大映社長でもあった永田が私財を投じ建設した“夢の球場”だった。
当時としては画期的な試みが多く、内外野天然芝(内野はのち芝を撤去)、1階スタンドと2階スタンドの間のゴンドラ席、入り口から2階へのスロープはいずれも日本初。カラフルなイス席も特徴だった。スタンド下にはボウリング場、スタンドは冬場はスケート場となり、さらには球場下に地下鉄駅を置き、一大レジャーランドとするプランもあったという。ただ、もともと敷地が狭かったこともあり、両翼まで距離が取れず、“ホームラン量産球場”とも言われた。

1962年6月2日に行われたオープニングセレモニーにはパ・リーグ6球団が集結した
その後、球団名が東京、さらに映画産業の衰退もあって69年からはロッテとなり、70年には、ここで優勝決定。お客さんが一気にグラウンドになだれ込み、涙の永田オーナーを胴上げした。しかし、翌71年1月、永田オーナーは球団に関する、すべての権利をロッテに譲り、退任、同年限りで大映も倒産した。
球場を買い取った国際興業はロッテに球場の買い取りを求めたが、契約がまとまらず、72年限りでの閉鎖が決まった。
東京スタジアムの情景
名物オーナーの夢かなう 球場を作ったのは大映の永田雅一オーナー。高橋球団を吸収合併し、毎日球団とも合併。大毎、東京、ロッテと球団名が替わっても人情と愛情深いオーナーは選手から慕われ、1970年10月7日にオリオンズの10年ぶりVが決まった夜にはナインとファンに胴上げされた。
史上最年少の2000安打 早熟の天才打者・
榎本喜八が金字塔を達成した。「ミサイル打線」の中軸として多くのファンに愛され、迎えた1968年7月21日に近鉄・
鈴木啓示から二塁打を放って節目の2000安打を達成。31歳7カ月での達成は、いまだにNPBの最年少記録として刻まれている。
【STADIUM DATA】 東京都荒川区南千住
開場年 1962年
フランチャイズ終了 1972年
閉場 1977年
収容人数 3万5000人
両翼 90m
中堅 120m