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廣岡達朗連載「やれ」と言える信念

廣岡達朗コラム「なぜヤクルトは背番号『34』を永久欠番にしないのか」

 

背番号34を背負った国鉄時代の金田氏


 金田正一が亡くなった。86歳だったから私より2学年下にあたる。

 まさに不世出の投手だった。

 剛速球がうなりを上げた。もうひとつ、大きなカーブを有効に使っていた。デビューした当時は、本当に速い球を放っていて、あの“打撃の神様”川上哲治さんが苦手にしていたほどだった。400勝投手というのは今後出てこないと思うが、それを達成できたのも、ローテーションという概念が彼にはなかったからだ。

 先発投手のローテーションは、多民族国家のアメリカが平等主義の理念の下に取り入れた起用法だが、金田はそれを鼻でせせら笑うように、勝ち星を独占していった。

 たとえば、昔は、日曜日になるとダブルヘッダーがよく組まれていた。第1試合に彼が先発して完投勝利。第2試合に国鉄の投手が勝利投手の権利を得る寸前で、自分がマウンドに上がっていって他人の勝利をも奪ってしまう。それだけの才能、力があったということだ。

 だから、これが私とは違うところだが、ほかの選手を上手に育てるという発想は、彼の頭にはない。「俺が俺が」の典型のような男だった。非常に自尊心が強い。昔のプロ野球は、そういう連中の集まりだったが、なかでも金田の自我の強さは並々ならぬものがあった。

 これぞ本物のプロであり、私はその精神を買う。

 金田は1964年のオフ、B級10年選手制度を行使して巨人軍に来た。そのときに、彼が本当に野球を好きかどうか、巨人の投手陣はその一挙手一投足に注目していた。値踏みしていたと言ってもいい。たとえ相手が大投手でも教えを請おうなどという考えはない。迎え入れる巨人にはそれだけのプライドがあった。いざ巨人のユニフォームを着た金田は、よく練習し、よく食べ、よく走った。野球を愛しているのが伝わってきた。金田の真摯(しんし)な姿勢を認めたからこそ、それなら彼を助けてやろうと、堀内庄など当時の投手陣は全面的に協力したのだ。

 ショートから見た移籍1年目の金田は、打たれたら「お前、よう打ったな」という顔をマウンドでした。小柄な阪神吉田義男には、カモにされていた印象がある。吉田はバットを短く持ってのシュアな打撃が身上。金田の速球に素直にセンター返しを心がけていたように思う。金田も、こいつに打たれたらしょうがない、という感じで投げていた。

 私が言いたいのは、金田正一という男は、「国鉄の金田」であって「巨人の金田」ではないということだ。国鉄という弱いお荷物球団をあれだけ勝たせた。

 それだけに、金田の背番号「34」を巨人で永久欠番にしているのは、私には違和感がある。本来、金田の偉大さを語り継ぐ球団は、国鉄の流れをくむヤクルトであるべきなのだ。しかし、21世紀に入ってからヤクルトでは外国人投手を中心に「34」を着けさせてきた。伝統を分かっていない証拠だ。そのチームのためにやってきた人間をなぜ奉らないのか、私には納得できない。

 いまのプロ野球に、全盛時の金田が降臨してきたら、30勝は軽くしているだろう。合掌。

PROFILE
廣岡達朗/ひろおか・たつろう●1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍。66年に引退。広島、ヤクルトのコーチを経て76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年、球団初のリーグ制覇、日本一に導く。82年の西武監督就任1年目から2年連続日本一。4年間で3度優勝という偉業を残し85年限りで退任。92年野球殿堂入り。
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