
背番号3のメガネ時代
背中に100円ライターが
1982年、僕はプロ5年目にしてレギュラーをつかみ、リーグ優勝も経験しました。
西武に負けて、日本一にはなれなかったけど、オフにはダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)ももらった。街を歩けばファンに声をかけられ、ちやほやされるし、いいことばかりでした。まあ、案の定、少し天狗になっちゃったけどね(笑)。
あのオフ、球団から「背番号を1ケタに変えないか」と打診がありました。今と違ってレギュラークラスが40番台、50番台を着けている時代じゃなかった。谷沢(
谷沢健一)さんが41だったけど、それはもう谷沢さんだからで(笑)。
ありがたい話なんですが、少し迷いました。前も言ったけど、57には愛着があったんですよ。1982年が、昭和だと57年だったし、5月7日は、母親の命日でもある。レギュラーをつかみ、優勝も経験した番号です。ある意味、ラッキーナンバーだと思っていましたからね。
それに最初に言われた番号を聞いて、ちょっとびっくりしたのもあります。「3はどうだ?」って。それまで着けていた富田(
富田勝)さんが引退されて、ちょうど空いていたんですが、ほかの球団では、
巨人の長嶋(
長嶋茂雄)さんをはじめ、スーパースターの番号だし、ドラゴンズでも、僕が入ったときの監督、中(
中利夫)さんが現役時代に着けていた。中さんの現役時代は見たことありませんが、首位打者も獲と られた堅守の外野手というのは知っていましたしね。
恐れ多いと思って、「そんな僕なんか……」とぐずぐず言っていたら、何か勘違いしたのか、「じゃあ、1番はどうか?」って言ってきた。それは即答で「無理です!」。1は
高木守道さんじゃないですか!
守道さんは、この年限りで引退されてコーチになるんで、自分は大きい番号にして、1を若い選手に着けてほしいと思っていたらしいんですが、僕じゃなくても守道さんの番号は無理でしょう(笑)。そんなこんなで、結局、3になりました。
翌83年の成績どのくらいでした? .247? 規定打席ではドン尻ですか。そりゃダメだ。完全に遊び過ぎですね(苦笑)。
メガネをかけていた? そうそう、よく知ってますねえ。ナイターで試合をすることが多くなって、守備中に照明の光線が目に入っているうちに乱視みたいになったんですよ。最初はコンタクトにしようと思ったけど、合わなかったんで、そこからメガネにしました。ただ、雨が降ったら水滴がつくし、曇るしで、面倒くさくなって途中でやめました。実際、慣れもあるし、だんだん乱視も治ってきたみたいで気にならなくなりましたしね。
ナゴヤ球場は狭かったから守るのは楽でしたよ。走ればだいたい追いつきましたしね。はっきり言えば、そんなにきれいに整備されていた印象はないんですが(笑)、いつだったかな、なぜか1年だけ、すごく芝がきれいになった年があって、びっくりした記憶があります。甲子園より上じゃないかとみんなで言ってたんですが、二度と戻らなかったけどね(笑)。あれはほんと何だったのかな。
狭い分、お客さんが近くて会話もできたけど、ヤジもよく聞こえたし、しゅっちゅう物が飛んできた(笑)。100円ライターが多かったかな。背中にパシッと当たって、頭に来て、パッと振り向くとみんな知らん顔をする。それで前を向くとまた何か飛んでくるんですよ(笑)。
口は禍の元
じゃあ、次の年(1984年)の成績はどうです? 打率.291か。これはいいですね。ただ、出場は108試合でしょ。
前の年(83年)、チームは5位に終わって、優勝の翌年なのに近藤(
近藤貞雄)監督が辞めたんですよ。どうしてだったかはよく覚えてないけど、短気な人だからフロントとケンカしちゃったのかな。
次の監督が
山内一弘さん。知ってますか? カッパえびせんの人。CMの歌みたいに、一度教え始めると「やめられない、止まらない」人だった。昔の教え子がいると、相手チームのベンチに行って教えてるときもありましたからね(笑)。
あの年、ずっと調子が良かったんだけど、9月に巨人の
槙原寛己から死球を受けて、右手首骨折離脱となった。チームが僅差で2位だったんで、終わってから、「お前が骨折したから優勝できなかった」と周りの選手やファンに怒られたけど、仕方ないでしょ。ケガなんだから(苦笑)。
なぜ調子が良かったかと言うと、山内さんが監督になったとき、人づてに「センターは豊田(
豊田誠佑)か川又(
川又米利)でいいじゃないか」と言ったと聞いたからです。焦ったし、ナニクソとも思った。それでオープン戦から必死にやって結果を残し、開幕レギュラーを勝ち取ったんです。ナニクソと思ったのは、最初で最後かもしれない。そう考えると、ダメだな、俺。プロなんだから、もっとハングリーにならないとね(笑)。
外されそうになったのは、たぶん、前の年の秋季キャンプが理由だと思います。
ロングティーをコーチに投げてもらいながらやっていたとき、山内さんが来てアドバイスをしてくれた。このときコーチが冗談なんだろうけど、「お前、俺と監督のどっちの言うことを聞くんだ」と言って、「コーチです」と答えちゃった。それで、山内さんが、すっと顔色が変わって、その後、ほとんど向こうからは話しかけてこなくなった。
どう思いますか? そのとき、「監督です」と言えばよかったのかな……。別に僕は反抗的なタイプではないんだけど、ついつい言いたいことを口にしてしまうところがあります。今、思えば、自分がコーチ時代、選手に「あなたの言うことは聞きません」と言われたら嫌だろうね。
あのときはとっさに本音が出ちゃったところもあります。誤解してほしくないけど、山内さんのことは好きだったんですよ。話も面白いしね。ただ、練習方法が、水の入ったバケツを投げさせたり、バットを放り投げたり、変わったものばかりやらせる。やりながら、何となく腑に落ちなかった。今思えば、手首をこねない素直なスイングを覚えさせるためだと分かるし、悪いアイデアじゃないと思います。けど、あのときは説明もしてくれないし、なぜやるのか理由が分からなくて頭の中がグチャグチャになっていたんですよ。
山内さんと普通に話すようになったのは、あの人が監督を辞めてからです。口は禍(わざわい)の元と言いますが、ほんとですね。
PROFILE 平野謙/ひらの・けん●1955年6月20日生まれ。愛知県出身。右投両打。犬山高から名商大を経て78年ドラフト外で
中日入団。88年西武、94年
ロッテに移籍し、96年限りで引退。俊足堅守の外野手で86年に盗塁王、リーグ最多犠打は7回を誇る。通算1683試合、1551安打、53本塁打、479打点、230盗塁、打率.273。