大沢啓二監督に導かれたチームは70年台後半からメキメキと力をつけ、81年に優勝を飾る。その時代にソレイタやクルーズといった強力な助っ人がいる中、四番を任されていたのが柏原純一氏だ。勝負強い打撃と熱血漢としても存在感を発揮した男が語る、80年代ファイターズの記憶──。 81年の後期優勝会見から。写真左から柏原、大社オーナー、大沢監督。日本ハムに球団名が変わって初めての栄冠だった
忘れられない81年のV
僕は南海から1978年に日本ハムに移籍してきたんですが、すごく風通しの良いチームでした。74年に日拓から親会社が変わってまだ5年目ということで、生え抜き、移籍組とかもなく、それこそ僕と同じトレードで集まってきた選手ばかりでしたから。そういう意味では最初からやりやすい環境でしたし、大沢啓二監督にも1年目からクリーンアップで使ってもらったので。
ただ、最初は三番からスタートして途中から四番を打つことになったんですけど、正直イヤだった。そこまでホームランをバカスカ打つタイプでもなかったですからね。実際に大沢さんにソレイタのほうがタイプ的にも合っている的なことも言ったんですが、ソレイタも打ちたくないと譲らず、それで大沢さんに「オマエが打て」って半強制的に。普通なら大変名誉なことなんですけど、まさかの四番のなすり付け合い(笑)。
日本ハム在籍8年間でいろんな思い出がありますけど、やっぱり一番は1981年ですよね。その年は春のキャンプの時点から「今年こそ絶対に優勝するんだ」という思いがみんな強かった。なぜなら、前年の最終戦で近鉄に勝てば優勝というところで、負けた痛恨の悔しさがありましたから。そこからチームも
江夏豊さんをトレードで獲得するなど本気になっていましたしね。そんな中で迎えたシーズンだったのですが、前期は波に乗れずに下位に低迷。中軸を任されていた僕と
古屋英夫も成績が悪くて、かなりチームに迷惑を掛けてしまっていた。
そこで前期が終わったあと、大沢さんに古屋と一緒に監督室に呼ばれて「オマエら2人が頑張らないと優勝できない」と檄げきを飛ばされたんです。もちろん、僕も古屋もそんなことは分かっているよという思いでしたけど、その言葉でさらに奮い立ちました。後期で調子を戻せたのは・・・
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