「50個アウトになってもいいから100個走れ」。1985年春季キャンプ、新監督の近藤貞雄からの指示が高木豊、加藤博一、屋鋪要の3人に下された。彼らは「スーパーカートリオ」とも言われ、当時の“セ界”を足で席巻した。 
右から高木豊、加藤、屋鋪。指は彼らの打順だ
最初はスポーツカー?
1985年、59歳の近藤貞雄監督が大洋監督に就任した(同年10月で60歳)。81年から83年まで
中日監督を務め、82年にはリーグ優勝。コーチ時代に継投野球をいち早く導入し、中日監督時代には攻撃的な選手たちでリードを奪った後、一気に守備的選手に交代させるツープラトンシステムを取り入れるなど、アイデアマンとして知られたダンディな指揮官だ。
大洋は83年こそ3位だったが、その前の3年はBクラス、84年は、わずか46勝で最下位。はっきり言えば、“負け犬根性”が染みついていた。
それでも近藤監督は、「中日監督を引き受けたときも、前の年は45勝。大洋のほうが1勝多い。ただ、確かに選手層は中日のほうが厚かった。だから僕は大洋に来たとき、少ないものをいかに有効に使うかがポイントだと思った」と自信たっぷりに話し、大胆なチーム改革を進めていく。
最初にやったのが、春季キャンプでの内野のコンバートだ。ショートで83年まで8年連続ダイヤモンドグラブ賞(ゴールデン・グラブ賞)のベテラン・
山下大輔をセカンドへ、セカンドの高木豊をショート、ファーストのレオンをサード、サードの
田代富雄をファーストと、すべて変えてしまった。
大きな話題になったが、近藤監督は・・・
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