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岡江昇三郎

秩父宮の早稲田は最強だったのに神宮の早稲田とヤクルトが最弱だった時代。それにしても昔のヤクルトは弱かった…

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 ラグビーのWカップが、あれほどの盛り上がりを見せるとは夢にも思わなかったし、その後のまさにブームと言うべきラグビー人気も想定外だった(ほとんど五郎丸人気だが)。

 自慢じゃないが、こちとら、1969年から秩父宮ラグビー場に通い詰めているラグビーファン。同じ学部の同級生に、あの伝説のラガーマン、宿澤広朗君(スクラムハーフ)がいたことも大きかった。早大学院高時代にラグビーをやっていたA君に「宿澤はすごいぞ。1年生でもう全日本級。1回見てみろよ」と言われ、それではと見に行ったら、いっぺんにラグビーの魅力に取りつかれてしまった。早稲田が低迷期を脱し、宿敵・日体大を破るチーム力になっていたから(明大はまだ弱かった)選手たちにやる気がみなぎっていた。

 宿澤のほかにもフルバックの小林、ウイングの佐藤、フランカー(No.8かな?)の大東、少しあとだが、フルバックの植山(彼のライン参加と、プレースキックは見事だった)らが、大活躍した時代。ラグビー強豪校と公立の進学校出身者がいい按配に入りまじっていて、本当にいいチームだった。

 秩父宮は、まだ改装前で、トライが3点から4点に変わるころだった(現在は5点)から、遠い昔のことである。バックスタンドの一番上に立つと、右手に神宮球場が見える。これがまたいいのだ。大正15年(26年)埈工。ラグビー対抗戦グループの2試合目が終わる4時ごろには、夕暮れが近づく神宮の森の中で、ひときわ重厚な存在感を漂わせ始める。

 しかし、神宮球場の早稲田はドン底だった。筆者の在学した69~72年の8シーズン、1度も優勝なし。在学中に1度もVなしの卒業生を出したのは戦後初だったとか。ラグビーの方は40連勝もしているというのに……。

 もっとも、プロ野球の方も寂しかった。神宮を本拠地にするヤクルト(69年アトムズ、70年からヤクルトアトムズ=73年まで)はからっきしダメなチームで69年から72年まで5、6、6、4位とBクラスに沈んだきり。とにかく巨人に弱く、69年から10勝16敗、5勝21敗、10勝16敗、8勝17敗1分。69年を除き、巨人に最も多い勝ち星を提供しているチームだった。

 26回戦って21回負けるというのも、これは相当なものである。21敗したこの70年は、2位阪神にも21敗しているのだから恐れ入る。ほかにも大洋に18敗、広島に17敗、中日に15敗。優勝した巨人に45.5ゲーム差。5位の中日にも22ゲーム差というのだから、アホらしくなってくる。この年の勝率.264はスワローズ史上最悪である。60年代以降、現在までの記録としては、セ・リーグ最低勝率という“大記録”なのだ。当然球場も不入りで、この年の入場者は約76万人(今年は約166万人)。

1970年の神宮球場[オールスター第1戦]。さすがに外野席も観客で埋まっている。ヤクルトからの出場選手は武上のみだった



 この年、どんなプレーヤーたちがいたかというと、投手では石岡康三が6勝14敗、外山義明が4勝10敗、松岡弘が4勝12敗。これだけが規定投球回到達者。松岡はセ・リーグの防御率最悪投手だった(22位、4.22)。打者では武上四郎が.265で12位、東条文博が.249で23位(28盗塁で盗塁王)、福富邦夫が.239で29位、ロバーツが.238で30位。この4人が規定打席到達者。とにかく打てないチームでチーム打率.215は12球団最低。チーム本塁打数69は、巨人の王貞治長嶋茂雄の本数を合わせた69と同じなのだからどうにもならない。

 いまのプロ野球は、こういうミソッカスチームを出さなくなった。これは、ドラフトのおかげである(70年は、まだドラフト5年目)。それだけに“ひとり負けチーム”が出たら、その責任は重いのである。

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岡江昇三郎のWEEKLY COLUMN

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プロ野球観戦歴44年のベースボールライター・岡江昇三郎の連載コラム。

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