引退を決めた男にスポットを当てる『惜別球人』がスタートする。迷いなきフルスイングから生み出す群を抜く飛距離。燕の主砲として14年ぶりのリーグ優勝に導いた。数々の故障に苦しみながらも一つの信念を胸に闘い抜き、一時代を築いた右打者が、プロでの19年間を振り返る。 材・構成=富田庸 写真=桜井ひとし、矢野寿明(インタビュー)、BBM 根拠のない自信と甘かった考え方
飛び込んだ世界には、スター選手がそろっていた。入団した年にチームは4年ぶりのリーグ優勝、日本一を遂げた。そんな中、二軍施設のある埼玉・戸田で修行の日々を送ることになる。優等生とは対局に位置する男が、自身の才能を開花させるまでの過程に何があったのか。 ──9月21日には神宮球場で引退試合、セレモニーがありました。
畠山 試合中はスピーチのことで頭がいっぱいで、自分の打席のことを考える余裕がなかったんです(苦笑)。打席でもっと緊張して、涙を流すんだろうなと思っていたんですけど、それがまるっきり逆で、過去最高と言えるくらい冷静で。今までは「打てなかったらどうしよう」などと、どうしてもマイナス思考だったんですけど、打っても打てなくてもこれが最後なんだと思ったら、これまでで一番楽しく迎えられた打席だったのかな、と思います。
──神宮での最終打席、その景色や声援はいかがでしたか。
畠山 冷静だった分、たくさんの声援が聞こえましたし、さまざまな思いをかみ締めながら打席に入りました。たった1打席だけでしたけど、今年に関して言えば、自分が一番輝けた瞬間だったと思います。内容はアレですけど(笑)、(二塁手の後方に落ちる)ヒットも打たせてもらいましたので。
──2001年ドラフト5位で
ヤクルトに入団して、19年間プレーしました。1998年入団の
五十嵐亮太選手と、1歳上の
石川雅規選手がいますが、所属年数は現役トップの長さとなります。
畠山 ドラフトではヤクルトの中で一番下の順位で呼ばれましたし、実際に指名されるかどうかは当日になっても分からなかったんです。だから、これだけ長くプレーできるとは誰も思わなかったんじゃないですかね。プロの世界に入れることへの喜びはもちろんありました。ただ、「プロで通用するだろう」という根拠のない自信があったりして、若いころはかなり考え方が甘かったですね。
──畠山選手が入団した年に、スワローズはリーグ優勝しています。
畠山 当時の一軍には池山(
池山隆寛)さんや古田(
古田敦也)さん……本当にすごい方々がそろっていたので、とても同じチームにいるとは思えなかった。僕には関係のない、別世界の人たちでした。一緒にプレーするなんて、とても思えなかったです。
──新人時代は戸田が主戦場になります。2年目にはイースタン・リーグで19本塁打、56打点の好成績で2冠に輝きました。
畠山 バットが金属から木になって苦労しましたし、とにかく練習についていくのに必死でしたね。でも・・・
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