沖縄で生まれ育ち、自然体を貫く男に欲はない。それでも“やるべきこと”に全力を尽くす。来季、チーム最年長となる37歳に、ささやかな1つの欲が生まれている。 文=米虫紀子 写真=佐藤真一、BBM 野心とは無縁「僕の力では無理」
オリックスの今季最終戦となった9月29日(京セラドーム)の試合後、今季限りで現役を引退する
岸田護の引退セレモニーが行われた。
T-岡田とともに花束を渡した
比嘉幹貴の目には光るものがあった。
「泣かないと思ったんですけどね」と比嘉は苦笑する。
「10年間、一緒に野球をやらせてもらって、自主トレも一緒にさせてもらって、本当に毎日一緒にいた人なので、最後、9回のマウンドで投げている姿を見て、『これが最後か』と思ったら、なんか急に寂しくなっちゃったんですよ。もう、1球目から涙が出ちゃいました」 岸田が引退したことにより、12月に37歳になる比嘉が、捕手の
山崎勝己とともにチーム最年長となる。だからといって、
「自分が引っ張らなければ」などと言う比嘉ではない。
「投手最年長、なんかやだなーって感じです(苦笑)。ピッチャー陣はみんな若いんで、どうにか自分の居場所を見つけて、必要だと思ってもらえるように頑張りたいなと思っています」 いつでも自然体。だからこそ苦境もひょうひょうと乗り越えて、今がある。
岸田護が引退し、来季37歳の比嘉[中央]が投手最年長に。状況を問わずにマウンドへ上がる救援右腕には、投手陣の“まとめ役”としての期待も大きい
沖縄県出身の比嘉は、高校の教員で野球部の監督も務めていた父・順二さんの影響で、幼いころから野球に親しみ、小学3年生のときに少年野球チーム「武蔵」に入団した。ポジションは主に遊撃で、たまに投手を務めた。
ところが小学6年生のときに、左ヒザ離断性骨軟骨炎を発症。
「このまま運動を続けたら、野球どころか走ることもできなくなる」と言われた。
そのため、コザ中学入学後の2年間は、野球だけでなく、体育の授業にも参加できず、いつも座って眺めていた。運動するのが大好きだった少年にとってはつらい2年間だったが、「2年間、我慢して走らなければ、また高校で野球ができるよ」という医師の言葉を支えに耐えた。
中学3年になり医師の許可が出ると、3カ月間だけだったが、軟式野球部に入部。公式戦に1試合出場した。卒業後は地元のコザ高に進学し、念願の高校球児になった。
高校でも最初は遊撃手だった。
「足は遅いし、バッティングもダメだったんですけど、なんかショートがカッコよくて、やりたかったんです」 当時、遊撃手だった比嘉のスローイングは、今の比嘉の投球フォームと同じサイドスローで、高校の監督にはいつも「横からじゃなく上から投げろ」と怒られていた。
しかし、高1の夏のある日、比嘉に転機が・・・
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