
2000安打達成で花束を贈られた清原が大歓声に右手を挙げ応える
プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月4日だ。
いまではすっかり負のイメージが強くなった
清原和博。公の場に姿を現すこともほとんどなくなったが、
西武時代、そして、
巨人時代でもこの年までは、スランプで批判を浴びたときもあったが、その存在感は特別なものがあった。出場が減っても「俺がチームの中心で引っ張る」という思いは、ずっとあったはずだ。
おそらく、清原が野球に対するストレスを本当の意味で感じ始めた年が2004年だった。そして、この年の6月4日に記念の2000安打を達成した。
前年限りで信頼する
原辰徳監督が退任。
堀内恒夫新監督は、一塁でペタジー二と清原の併用を明言し、初めて二軍キャンプスタート、開幕からはベンチを温めることが増えた。
結果的に野球人生最悪のシーズンとなってしまうのだが、この時点では、清原はくさることなく、たとえ代打であれ、常に全力でバットを振った。
6月4日は、そんな清原に久々に訪れた大舞台だった。神宮球場での
ヤクルト戦。スタメンで起用された清原は1回表二死からヤクルト・ベバリンの投げた134キロの変化球をとらえ、センター前に。プロ19年目で、史上31人目の偉業、2000安打に到達した。
「センター返しは基本。本塁打で決めるのが夢でしたが、それに負けない、いいヒットだったと思います」
試合後の会見で言葉をかみしめるように語った。
圧巻は次の2001安打目だった。この試合の9回表、ヤクルト・
五十嵐亮太の155キロ速球をとらえ、左中間上段にぶち込む。
「全身の筋肉が1つになった。いままでで5本の指に入る本塁打です。入団したとき王(貞治)さんの(世界記録)868本を口にしましたし、これからは500本という山に向かっていきたいと思います。明日からは優勝に向け、また体を張って頑張ります」
無頼にも見え、実際そうだったのかもしれないが、清原の言葉には、いつもたくさんの含蓄と繊細さがあった。
故障もあって40試合の出場に終わったこの年のオフ、清原は巨人から戦力外を伝えられるが、直談判で残留。会見で「泥水をすする覚悟でやる」と厳しい表情で語った。
写真=BBM