近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 「空白の1日」の余波
[1979年1月]
巨人・小林繁⇔阪神・
江川卓 すべての始まりは「空白の1日」だった。作新学院高、法大を通じて「怪物」と呼ばれた江川卓にとって、3度目のドラフトを翌日に控えた1978年11月21日。巨人が突如として江川との契約を発表し、世間は騒然となった。巨人サイドの言い分はこうだ。
「野球協約では江川を前年に指名したクラウンライター(この時点では
西武)の交渉権は20日に切れる。よって21日はいかなる球団とも契約可能な日となる」
すなわち「空白の1日」というわけだ。しかし、セ・リーグの鈴木龍二会長は、巨人が主張する「空白の1日」はあくまで手続き上から生じたものであり、この契約は野球協約の基本精神に反するものとして、江川の選手登録申請を却下。ここから「怪物」の巨人入りまでの長い長い道のりが始まった。
契約の正当性を主張する巨人は、翌日のドラフトをボイコット。11球団のみが参加するという異例の事態となり、阪神、
ロッテ、近鉄、南海の4球団が江川を1位で指名した。抽選の結果、交渉権を得たのは巨人にとって永遠のライバルである阪神。ここから運命の歯車が大きく動き出す。
ドラフトから1カ月近くが過ぎた12月21日、金子鋭コミッショナーが、巨人と江川の契約は認められず、11球団のみ参加のドラフトも有効という裁定を下し、巨人の主張は全面的に退けられた。ところが翌日になって、コミッショナーは「阪神は江川と契約し、キャンプ前に巨人へトレードせよ」と言い出した。要は前日の裁定を踏まえた上で、自らの「強い要望」という形で一連の騒動に終止符を打とうとしたのである。
それでも事態はすんなりとは運ばなかった。江川と阪神の交渉は難航し、年が明けても契約は成立しない。春季キャンプが近づく中、両者が合意したのはキャンプイン前日の1月31日。そのころ、“犠牲者”はすでに決まっていた。
巨人ナインはみんなイラ立っていた
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紆余曲折を経て巨人に入団した江川(右は正力亨オーナー)
「キャンプで同室? ま、できれば避けてほしい」
こう、衝撃的な発言をしたのは当時の主砲の
王貞治であった。1979年、春季キャンプのため宮崎入りする直前、報道陣からの「キャンプに江川が合流したら、同室、どうなんですか」。“嫌”という答えを期待していたかのような質問に一瞬、顔をしかめながらの言葉であったが、日本球界のリーダーである王はどんなことがあろうが、決して人の嫌がる言葉を口にすることはない。それが……。そのときのジャイアンツは“江川事件”でみんながイラ立っていた。
そして、迎えた1月31日、巨人ナインは宮崎キャンプのため羽田空港に集合していた。その日、阪神も動いた。江川と入団交渉を行い、巨人へトレードさせるための儀式として契約を交わした。『阪神・江川卓 投手 背番号3』が登録された。
巨人職員・穂満正男の口の中は乾ききっていた。早めに空港に行き、待っていた。“その男”を見た。手にはいっぱいの汗。ノドはカラカラだったが、その男に声をかけた。
「オイ、ちょっとコバ……」
小林繁だった。前年の78年、13勝12敗1S、長嶋巨人が連続優勝した76、77年は連続して18勝をマークするなど大黒柱であった。それが、江川の“犠牲者”となったのだ。ハイヤーに乗せられ、都内のホテルに向かう道中で、小林は“犠牲者”が自分であることを悟ったという。
小林は球団幹部から深夜に及ぶまで説得を受けた。選手には切り札もある。『拒否→引退』という道だが、小林は大人の決断をした。
「トレードはプロ選手としての宿命です。従います」
翌2月1日、阪神と巨人からトレード成立が発表され、会見に臨んだ小林は「犠牲になったという気持ちはない。同情は買いたくない」と毅然とした口調で語り、多くのファンの共感を呼んだ。
男の意地を見せた小林
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79年4月10日、甲子園で巨人戦初勝利を挙げた小林
「みなさん、そう興奮しないでください!」
入団会見で、殺気立つ報道陣に江川が思わず発した言葉が「生意気なヤツ」ということで周囲のひんしゅくをかった。それがそのまま世の中に伝染。ルールを無視して思いどおりにすることを『エガワル』。流行語にさえなり、しかもそのイメージはダーティーであった。
そして、江川を語るときには常に修飾語がついた。
『アノ江川……』
事件当事者である巨人代表の長谷川実雄もたびたびの『アノ……』に「君たち、もういいだろう。マスコミは書くのが商売だからとやかく言わんが“アノ”と冠をつけるのだけはやめてくれ」。
一方、“悲劇のヒーロー”となった小林繁は、無念さをグラウンドで見せた。移籍1年目、22勝9敗1Sで投手部門のタイトルを総ナメにした。しかも巨人に対しては8勝無敗、3完封と完璧な数字を残して恩返しした。男になった。
引退した後、小林は初めて問題に触れた。
「男はどこかで転機がある。あのときはそれ……。あれ以上こじらせてはいけないよ、あれは。野球界はいろいろな問題をその都度抱えていただろ。江川という男は意識せず、日本球界が抱えた諸問題とトレードしたんだ、俺はね」
強引に巨人入団を果たした江川だが、“事件”に対するペナルティが当然科された。
(1)開幕までの謹慎(キャンプ、オープン戦の剥奪)
(2)開幕から2カ月の一軍登録の禁止
いばらの道だった。
デビューは6月2日の解禁日、後楽園球場での因縁の阪神戦。4点をもらうもスタントン、若菜、
ラインバックの3発5失点で沈んだ。後に江川の代名詞となる“外国人病”“一発病”の原点だった。その年、9勝10敗に終わる。81年20勝(6敗)をマークして怪物ぶりを見せたが結局、20勝はその一度だけ。実働9年、通算135勝(72敗)で幕を下ろした。
そして、“事件”から30年近く歳月が流れた2007年秋、2人にようやく邂逅の時が訪れる。それはCMでの共演だった。お互い50代になった小林と江川が、日本酒を酌み交わしながらしみじみと語り合う。
「しんどかったやろなあ……オレもしんどかったけどな。2人ともしんどかった」
長い年月に思いをはせながら語りかける小林に、「そうですね」と神妙な面持ちでうなずく江川。当時を知る者にとっては、なんとも感慨深いCMだった。
写真=BBM