週刊ベースボールONLINE

トレード物語

【トレード物語16】ドラフト拒否から三角トレード。世間の反発を招いた“荒川事件”【1970年】

 

近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。

2人組の暴漢に……


大洋入りした直後に三角トレードでヤクルトへ移籍した荒川


[1970年オフ]
大洋・荒川尭⇔ヤクルト(金銭)

 1969年秋のドラフト会議では“ビッグ3”と呼ばれる3人の選手に注目が集まっていた。“甲子園のアイドル”として騒がれた三沢高の太田幸司、早大で6季連続ベストナインに輝いた谷沢健一、そして六大学歴代2位(当時)の通算19本塁打を放った同じ早大の荒川尭である。

 このうち、ドラフト前に「巨人が第1希望。ダメなら神宮が本拠地のアトムズ。それ以外から指名されても入団しません」と明確な意思表示をしていたのが、荒川だった。神宮のスターだった彼は、巨人の打撃コーチの荒川博と養子縁組を結んでいたのだ。

 ただし、当時のドラフトは抽選によって1位の指名順を決める方式。抽選の結果、巨人は11番、アトムズは9番で、その前に3番を引き当てた大洋が荒川を指名してしまったのである。もちろん荒川は「浪人も辞さず」と、これを拒否。養父である荒川コーチの仲人だった別当薫監督の説得も実らず、いたずらに時間だけが過ぎていった。

 そして年が明けた70年1月、“事件”は起こった。愛犬を連れて自宅近くを散歩していた荒川が2人組の暴漢にこん棒のような物で殴られ、後頭部と左手指に全治2週間のケガを負ったのである。

 その後、荒川は騒音から逃れるようにアメリカに野球留学。半年後に帰国した際には、荒川コーチのみならず王貞治黒江透修ら巨人の主力選手までが出迎えるなど、荒川の巨人入りはあたかも既定路線のようになっていた。

セ・リーグ会長の怒りも……


 だが、そこで動いたのが「もう1つの意中の球団」であるヤクルト(70年にアトムズから改称)だった。当時、川上哲治監督との確執が表面化していた荒川コーチは退団濃厚と見られており、そうなれば息子が巨人入りにこだわる理由はない。さりとてヤクルトがドラフトで荒川を指名できる保証はない。こうして仕掛けられたのが、禁じ手とも言える“三角トレード”だったのだ。

 まず、ドラフト入団選手の契約届出締め切り2日前になって、大洋が荒川と契約を結んだ。シーズン終了を待ってトレードするための布石である。しかし、これにセ・リーグの鈴木龍二会長が怒った。形式だけの入団をよしとせず、大洋の練習に参加するよう勧告を行い、荒川も一度は大洋のユニフォームを着て秋季練習に参加した。世論の反発もあり、ひとまずはそのまま大洋でプレーするのではとの見方も強まった。

 それでも、結局は暮れになって荒川は金銭トレードでヤクルトへ移籍。荒川コーチがヤクルト入りすれば、神宮を舞台に“親子鷹”が誕生するとの期待も高まった。

 ただし、物語はハッピーエンドにはならなかった。協約違反により1カ月の出場停止を科せられた荒川は、浪人生活の影響もあり、プロ1年目は精彩を欠いた。2年目の72年には主に三番・サードで打率.282、18本塁打と大器の片りんを見せたものの、荒川コーチがヤクルト入りした73年以降は、襲撃事件の後遺症による視力低下に苦しんだ。結局、養父が監督に就任して2年目の75年途中で現役を引退。まだ28歳だった。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング