星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 「もっと野球を好きになって、恋をしろ!」

コワモテの闘将を演じた部分もあったのかもしれない
前回の最後で触れた「NEVER NEVER NEVER SURRENDER」。星野監督は「決して負けない、決してあきらめない、決してへこたれない」と訳したが、
阪神監督としての歩みを振り返ると、おそらくは選手というより、自分自身に言い聞かす言葉だったようにも思う。
ふたたび「阪神80年史」のインタビューから抜粋していく。
「まあ、みんなも僕のパーソナリティを少しは知っていたはずだから。阪神には
中日でプレーしていた矢野(輝弘)がいたし、彼とのトレードでは阪神から中日へ久慈(照嘉)、関川(浩一)が行っていた。監督就任がウワサされたときから、ほかの選手は僕がどういった人間か彼らにリサーチしているだろうから。そういうふうに勉強することは当たり前で、やらなければ新任監督の野球についていけない。ただ、面食らっただろうね(笑)。ブツブツとモノを言うオッサンから、はっきりとモノを言うオッサンに代わって(笑)。とはいえ、僕は特別変わったことをやったわけではない。ただ、普通にやっていれば良かったんだよ、僕は」
ブツブツとモノを言うオッサン、
野村克也前監督である。毀誉褒貶は多い星野監督だが、その最大は「野村監督の後だったから阪神で優勝できた」だろう。
確かに、
赤星憲広ら野村時代の獲得選手が星野阪神の中心にいたし、全員に浸透したわけではないが、矢野のように野村監督に大きな影響を受け、開花して選手もいる。
ただ、アンチ星野も認めるだろうが、野村監督続投なら2003年の優勝はなかっただろう。多少強引だったが、選手の意識改革をし、大型補強で血の入れ替えをしたからこその優勝だった。
インタビューに戻る。星野監督はムチばかり振るったわけではない。
「いいときはいいとはっきりと褒めてやる。逆にダメなときはダメだ、と。これは当然のことだろう。そういえば、確かこんなことを言ったかなあ。『お前たちは、俺が着たくて、着たくてしようがなかったタテジマを着ている。俺はお前たちがうらやましかったんだ。なのに甲子園でのぶざまな戦いはなんだ。オレは敵として恥ずかしかった』と。さらに『大阪は吉本の笑いとタイガースしかねえんだ』とも。まあ、それは極端に言い過ぎたけど、とにかく阪神タイガースは関西の文化財だということを理解してほしかった。とにかく伝統あるタテジマのプライドをよみがえらせることが一番、大事だと考えた。
そうそう、こういうことも言ったなあ。『もっともっと野球を好きになって、恋をしろ。女ばっかりに恋しているんじゃないよ!』とね(笑)」
怒鳴りまくる恐怖政治とは真逆でもある。
さらにインタビューの中に、こんな言葉もあった。
「よく言ったのは『技術はすぐにうまくなるわけではない。コツコツコツコツ毎日練習するしかないだろう。でも気持ちは、自分の持ちようでスーッ、スーッとスムーズに上がっていくはずなんだ』と」
野村監督は、その選手の弱点にも見える個性を逆に武器とさせる指揮官だった。対して星野監督は、選手の意識改革に重点を置いた。そして、それを成し遂げる原動力は、選手たちを信じる心だったはずだ。
<次回へ続く>
写真=BBM