背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 阪神にも多い90番台の現役選手
巨人と同様にセ・リーグのチームは選手が多い傾向があり、阪神も名選手では負けていない。「92」は
藤川球児が「きゅう・じ」にちなんで「30」から変更した2番目の背番号だ。その後はプロ野球新記録のシーズン12ボークを残して1年で去ったジャン、「く・じ」にちなんだ
久慈照嘉コーチを経て、投手の
伊藤和雄が継承した。
現役では「94」に捕手の
原口文仁、「98」に2017年のセーブ王でもあるクローザーのドリスもいる。
西田直斗の「93」は西口裕治がブルペン捕手として28年もの長きにわたって背負い続けたナンバーだ。
広島は2000年代からカープアカデミー出身の外国人選手が多くなり、その出世頭が17年シーズン途中に支配下の「95」となってリーグ連覇を呼び込んだ長距離砲の
バティスタだろう。阪神のザラテも「95」の助っ人だった。
18年の
DeNAは指導者と選手が混在。
ヤクルトでは現役で「91」の
鵜久森淳志が少数派の選手だ。「91」は
ソフトバンクで
陽耀勲、巨人で
堂上剛裕ら球界に兄弟がいる選手が着けたナンバーでもあるが、目立つのはパ・リーグで、
楽天で
下柳剛が長いキャリアを締めくくったのが「91」。
オリックスでは
マエストリら外国人選手が多く、古くは
西武の
広岡達朗監督がラストイヤーに着けている。
ダイエーから自身2度目の戦力外通告を受け、古巣の近鉄で
山本和範が着けたのが「92」。波乱万丈の野球人生における最後の背番号となったが、ダイエー戦での最後の打席で福岡ドームの外野席へ決勝本塁打を叩き込んだ。
そのダイエーで
田之上慶三郎が2年目まで着けていたのが「94」で、
星野仙一監督の後を受けて指揮を執った楽天の
大久保博元監督が着けていたのが「95」。巨人で
條辺剛と
林昌範が出世番号としてリレーした「96」には、阪急が最後の優勝を飾った1984年から近鉄と合併する04年まで背負い続けた安田昌玄コーチがいる。プロ野球選手の経験はないが、多くの選手を鍛え上げたトレーニングのスペシャリストだ。
「97」は、やはり台湾出身の
荘勝雄コーチが
ロッテで着けたことがある。楽天で育成から這い上がった
内村賢介が1年だけ着けたのが「98」だ。
名選手が系譜に並ぶ「99」
中日へテスト入団を果たした“平成の怪物”松坂大輔が着けることになった「99」は、もともと90番台では特に名選手が多いナンバーだ。
特筆すべきも、その中日だ。投手としては芽が出ずに野手転向、のちに背番号も「99」へと変更して99年に“恐怖の七番打者”としてブレークした
井上一樹が印象を残すと、オリックスを自由契約となって育成枠で入団した
中村紀洋が支配下となって背負い、07年の日本シリーズでMVPに。中村は楽天、DeNAでも「99」を背負い続け、新たなトレードマークとして選手晩年を過ごしている。
「99」に名選手のナンバーという印象を最初に刻んだのは投手で、阪神の
中込伸だ。練習生のときの気持ちを忘れないように、と入団した89年から94年まで背負い続けている。中込も「99」で3度の右ヒジ手術を経験し、のちに復活を果たした。松坂が新たに背負った「99」は、どん底から這い上がった男たちが系譜に並ぶ不屈の背番号でもある。
18年は楽天の
梨田昌孝監督が「99」唯一の監督だ。指導者では西武を就任1年目の日本一に導いた
渡辺久信監督も「99」で、その後継者が助っ人スラッガーの
メヒア。巨人の
山口鉄也が育成出身の投手で初めて白星を挙げたのも「99」のときだ。
ちなみに
日本ハムでは、90番台の後半はチームスタッフの背番号だが、かつて90番台の背番号が担っていた役割は多くのチームで3ケタの背番号に継承された。重い背番号でスタッフがチームを支え、育成選手が狭き門を目指している。
写真=BBM