いつも同じ序文と批判もあったが、最後までしつこくいく。星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していく。今回は最終回だ。 「明大でも中日でも阪神でも楽天でも、本当にいい思いをさせてもらいました」

新人時代の星野さん
星野さんには
楽天監督退任後、2度のロングインタビューを受けてもらった。
2015年が『
阪神80年史』、2016年が『
中日80年史』である。いずれも現所属の楽天ではないが、快く引き受けていただき、いつものように熱く語っていただいた。
阪神80年のときは話が止まらなくなり、申請した取材時間を考えて止めようとした、うちの阪神担当が「まだ俺は話しているんだ!」と怒られたという。
ラストのラスト、『中日80年史』の最後に、こんなことを言っていた。
「私は明大でも中日でも阪神でも楽天でも、本当にいい思いをさせてもらいました。70歳になるまで、こうして野球に携わらせてもらっている。『こんなに恵まれて俺はまともに死ねないな』なんて思っているほどです(笑)。自分が100パーセント正しいとは思わんけど、と前置きしてですが、自分を曲げることをしなかったのを正しく報道してもらったおかげです」
当時、星野さんは自身の病気は知らなかったと思うが、これが最後のインタビューになってもおかしくない結びではあった。
実は、この後、本誌へのコラムの連載をお願いしたのだが、「今回はええやろ」と珍しく断られている。
星野さんの野球人生には毀誉褒貶がある。読んでいただければ分かると思うが、今回の連載は、それを美化するわけでも、批判するわけでもない。ただただ、星野さんが話した言葉を少しでもたくさん残しておきたいと思ってやってきた。
おそらくは自らの余命を分かったうえでの最後の1年あまりについては、以前『人生の終い方』というコラムでも書かせていただいた。
一部、繰り返しで失礼する。
2016年7月にすい臓がんが発覚。
2017年1月、野球殿堂入り。オールスター、しかもかつての本拠地ナゴヤドームでの表彰式で、中日ファンに「ナゴヤドームを満員にしてください」と大きな声で、あいさつをした。
楽天副会長としても最後まで職務をまっとうする。ドラフト会議にも出席し、スカウトたちと一喜一憂した様子はテレビ番組でも流れた。
年末には殿堂入りを祝う会を東京と大阪で行い、多くの仲間、後輩、恩人たちへの別れを笑顔でしっかり済ませた後、2018年1月4日、家族が見守る中で静かに息を引き取った。
さすが星野仙一、見事な人生の終い方だった。
<了>
写真=BBM