プロ野球史を彩ってきた数多くの名選手たち。生まれた世代ごとに週刊ベースボールONLIN編集部がベストナインを選定して、“史上最強世代”を追いかけてみる。 象徴的なサイドハンド
名球界入りを果たしたのは通算2038安打の
新井宏昌が唯一。1987年に130試合制では最多の184安打を放って首位打者となったヒットメーカーで、その実績は52年に生まれた世代でも際立っている。だが、この世代を“小林世代”と銘打ったのは、
巨人や阪神といった人気チームでエースとして活躍したネームバリューからではない。小林繁という存在が、あまりにも象徴的だからだ。
長嶋茂雄監督の率いる巨人で、独特のサイドスローでエースとして連覇に貢献したものの、いわゆる“空白の一日”で巨人は
江川卓と契約、そのあおりを受けて79年のキャンプ前日に阪神へ。シーズンが開幕すると古巣の巨人に猛然と牙をむき、無傷の8連勝を含む自己最多の22勝で初の最多勝、巨人時代に続く2度目の沢村賞に輝いた。そんな小林のように、逆境に追いやられながらも、さらなる輝きを放った男たちが並んでいる。
【1952年生まれのベストナイン】(1952年4月2日~53年4月1日生まれ)
投手 小林繁(阪神ほか)
捕手
笹本信二(阪急ほか)
一塁手
柏原純一(
日本ハムほか)
二塁手
渡辺進(
ヤクルト)
三塁手
レオン・リー(
ロッテほか)
遊撃手
菅野光夫(日本ハム)
外野手 新井宏昌(近鉄ほか)
杉浦享(ヤクルト)
淡口憲司(巨人ほか)
指名打者
テリー・ウィットフィールド(
西武)
小林と三本柱となるのが
松沼博久(西武)と
池谷公二郎(
広島)。松沼は「(江川問題で)ルール違反の巨人より新興の西武で」と黄金時代を支えたサブマリンで、池谷は独特の豪快なフォームをプロ1年目から貫き、真っ向勝負で奪三振と被本塁打の山を築いた豪傑だ。
外野陣にはスイングスピードの淡口憲司、打球スピードで鳴らした杉浦享(亨)と左の強打者が並ぶ。小林とは巨人時代のチームメートで、“コンコルド打法”の淡口は、たびたび打率3割を上回りながらも「左投手に弱い」というレッテルもあって規定打席到達は83年のみ。杉浦は長くヤクルトでレギュラーを張ったが、選手晩年は代打となり、引退が報じられていた92年の西武との日本シリーズで代打サヨナラ満塁本塁打を放って、翌93年の現役続行も決めた勝負師だった。
流浪の長距離砲にチームひと筋の職人も

ロッテ・レオン
指名打者にいるテリーは惜しまれながらメジャーへ復帰したが、対照的に好成績を残しながら所属した3チームすべてで解雇されたのがレオン。それでも2003年には
オリックスのコーチとして日本球界に復帰、5月からは監督として指揮も執った。もともとは一塁手だが、ここでは大洋時代に
近藤貞雄監督の“裏返しコンバート”で守った三塁に据えた。
その一塁にいる柏原純一は
野村克也兼任監督の解任に追随するように南海を退団し、日本ハムを四番打者として優勝に導いたスラッガー。遊撃にいる菅野光夫は、その日本ハムで78年に“組織票”で球宴に選ばれたが、「実績が乏しい」と
古屋英夫とともに辞退させられる。
古屋は翌79年に出場したが、菅野は縁がないまま現役を引退。それでもVイヤーの81年には32犠打をマークするなど、くさることなくチームを支え続けた職人だった。菅野と二遊間を組む渡辺進もヤクルトひと筋、内野すべてに外野も守ったユーティリティー。捕手の笹本信二も3チームで控え捕手として渋い働きを見せた名ワキ役だ。
黄金世代と激突したら、苦しい試合になるかもしれない。ただ、そんな逆境こそ、この男たちにとっては最高の舞台でもある。
写真=BBM