1990年代初頭メジャーキャンプ地の聖地だったホットスプリングス。この球場でルースは特大の本塁打を放ち二刀流を始めることになった
3月下旬、アーカンソー州の山間の小さな町ホットスプリングス(人口3万5000人)を訪ねた。ここはプロ野球の春季キャンプ誕生の地である。1886年、シカゴ・カブスの前身ホワイトストッキングスが、冬の間酒浸りになった選手の体を温泉に入れ、アル
コールを抜こうとして選んだ。
同年3月17日、創刊したスポーティングニュース誌がそのニュースを一面で伝えている。効果はてきめんでその年に優勝。他球団も右にならえと最多で5〜6球団、250人の選手が来るようになった。湯治場としてすでに有名だったことで、ホテル、レストラン、ゴルフ場、カジノなど娯楽施設も充実。ベーブ・ルース、サイ・
ヤング、ホーナス・ワグナー、ウォルター・ジョンソンなど大物選手たちも満足していた。
当時の1日のメニューは、早朝、山をハイキングして足腰を鍛える。午前は野球の練習。午後はゆっくり温泉につかり、その後マッサージを受ける。そして夜は歓楽街に繰り出した。メジャーの選手も躊躇なくギャンブルを楽しんだ。オハイオクラブは1905年にできたアーカンソー州で一番古いバー。ルースやギャングのボス、アル・カポネが常連で、今も開業している。
地元の歴史家マイク・デューガン氏が語る。「真のフィールド・オブ・ドリームスだった。球界の大スターたちがこの小さな町に集まってくる。子どものころ、祖父から思い出話をたくさん聞いた。ルースは子どもたちが近づいてくるとニッケル(5セント硬貨)をくれた。今と違って、当時のニッケルは使い勝手があった」
1918年3月17日、当地の球場で、まだ本業が投手だったレッドソックスのルースが573フィート(約175メートル)の特大のホームランをかっ飛ばした。この一撃で、監督の反対にも関わらず、ルースが打席に立つ機会が増え、毎年本塁打王になった。二刀流時代の18年、19年は、11本、29本。ヤンキースに移籍し、打者に専念した20年が54本、21年が59本である。パワーがアメリカの人たちを虜(とりこ)にし、プロ野球が国民的娯楽に発展していった。
しかしながらこのころがホットスプリングスのキャンプ地としてのピークでもあり、20年代後半〜40年代と球団はフロリダに移っていく。「一つの問題は歓楽地ゆえ、夜はギャンブルをしたり、お酒を飲んだりで、キャンプが終わったときに、必ずしも選手はいいコンディションにはなっていなかった」と禁酒法時代ですら酒が飲めたとデユーガン氏は話す。
「気候も雪が降る日もあった。ただ暖かいフロリダもマラリア(原虫感染症)が深刻だったころは、蚊に刺されるのが怖くて、キャンプ地にふさわしくはなかった。だがワクチンが発明され、虫除けスプレーで心配がいらなくなった」とデューガン氏。加えて、第二次世界大戦中にペニシリンが実用化され、抗生物質が多くの患者を感染症から救うようになる。病気の治癒のために、ここに来る人は激減した。
メジャー球団で、最後にキャンプを開いたのは49年のタイガースだった。100年前、ルースが特大の本塁打を打った球場は今はなく、駐車場となり、フィールドはアスファルトに覆われている。
文=奥田秀樹