1993年オフからスタートしたFA制度。いまや同制度は定着し、権利を得た選手の動向は常に注目されている。週べONLINEでは、そのFAの歴史を年度別に振り返っていく。 「自分に合った野球環境が見つかった」

阪神からFAでメッツへ移籍した新庄(左。右はバレンタイン監督)
20世紀から21世紀へと移り変わるシーズンオフ。7年連続で首位打者に輝いた
オリックスの
イチローがポスティング制度でマリナーズへ移籍したオフでもある。国内のトレードでは3対3の大型トレードが2組あった。大成功となったのが阪神から近鉄へ移籍した3人のうち1人、
北川博敏だ。
阪神では捕手として伸び悩んでいた北川は、水を得た魚のように打棒を爆発させる。極めつけは9月26日のオリックス戦(大阪ドーム)。9回裏、無死満塁の場面で代打として登場すると、打球は左翼席へ。釣り銭なし、史上唯一の代打逆転サヨナラ満塁“優勝決定”本塁打で近鉄を最後の優勝へと導いている。
FAでは国内、海外と1件ずつ。初めて打者がFA制度を使って海を渡った。
【2000年オフのFA移籍】
12月17日
川崎憲次郎(
ヤクルト→
中日)
ヤクルトの川崎憲次郎がFAで中日へ移籍したが、故障に苦しめられ、以降3年間で一軍登板ゼロ。
落合博満監督が就任した04年、開幕投手として移籍後の初登板を果たし、2回途中5失点で降板したが、落合監督は「川崎の頑張る姿がナインにいい影響を与えた」と優勝の要因として挙げた。
一方、海外へ移籍したのが阪神の
新庄剛志だ。「やっと自分に合った野球環境が見つかった」とメッツへ。無謀という声が多かったが、開幕戦で初打席初安打。02年に移籍したジャイアンツでは四番打者も務め、日本人選手として初めてワールド・シリーズにも出場している。
悩みに悩んだ片岡

阪神への移籍を表明し、涙を流した片岡
続く01年オフはFAが活発化。6選手がFA権を行使した。オリックスの
田口壮と横浜の
小宮山悟はメジャーへ移籍。それ以上に球史を左右したのが国内のFA移籍だった。
【2001年オフのFA移籍】
10月21日
片岡篤史(
日本ハム→阪神)
11月22日
前田幸長(中日→
巨人)
12月4日
加藤伸一(オリックス→近鉄)
12月24日
谷繁元信(横浜→中日)
最初に移籍が決まったのが片岡。日本ハム“ビッグバン打線”のスラッガーは、会見の1時間まで残留か移籍かを悩んだという。阪神1年目の02年は真価を発揮できなかったが、翌03年に雪辱を果たす。規定打席には届かなかったものの、9月15日の
広島戦(甲子園)では8回裏の先頭打者として値千金の同点弾。
赤星憲広の劇的なサヨナラ打へとつなぐ。その約2時間後、2位のヤクルトが敗れ、阪神18年ぶりのリーグ優勝が決まった。
2チーム目の中日でセットアッパーとして活躍していた前田は、新天地の巨人でも役割は変わらず。07年オフにレンジャーズとマイナー契約、36試合に登板して08年オフに引退。95年オフにダイエーを自由契約となって広島で復活、98年オフに自由契約となり移籍したオリックスで再び復活した加藤は、初めてのFA移籍で近鉄へ。翌02年は先発ローテーションを守って6勝を挙げた。
横浜の司令塔として98年のリーグ優勝、日本一に貢献した谷繁は中日へ移籍して黄金時代の司令塔に。これによって、中日で長く司令塔を務めてきた
中村武志はトレードを志願。谷繁のいた横浜へ移籍して、結果的に中日と横浜が司令塔をトレードしたような形となった。谷繁は14年には兼任監督となり、プロ野球記録を更新する通算3021試合に出場して15年限りで現役を引退した。
写真=BBM